ソ連東欧貿易調査月報

1991年3月号

 

T.ゴルバチョフ改革6年の推移と変容

U.ソ連極東経済発展の可能性

―ソ連科学アカデミー極東支部地域総合分析研究所代表団講演会―

V.ソ連と韓国・台湾との経済関係

W.韓国の対ソ連・東欧貿易

X.ソ連のエネルギー生産不振と石油輸出入

Y.新秩序の国際政治と米ソ関係 ―「ペレストロイカ支援」をめぐって―

Z.コメコン解体と欧州経済統合

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新刊紹介

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日ソ・東欧貿易月間商況1991年1月分)

                                   (1991年2月分)

ソ連・東欧諸国関係日誌1991年1月分)

                                   (1991年2月分)

 

 


 

ゴルバチョフ改革6年の推移と変容

 

1.ゴルバチョフ政権下のソ連経済の動向

2.経済立て直しを阻む財政赤字―要因と問題点―

3.物不足の実態と庶民生活

4.民生重視策への転換と地方主義の台頭

5.中央計画経済の改編から市場経済への移行をめざして

 

はじめに

 ゴルバチョフ政権が樹立(1985年3月)してから満5年が経過した。この間、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(1990年3月、ソ連邦初代大統領となる)を中心に推進されてきた政策は、一言で言ってペレストロイカ(立て直し)、つまり、政治・経済・社会の全面的立て直しであり、その方向を支えるためのグラスノスチ(情報公開)である。

 グラスノスチは、一方では言論、思想、集会、出版、報道などのくびきを切手民主化・自由化を促し、長年にわたって沈滞していたソ連の政治・社会に新風を吹き込み、活力をよみがえらせた。しかしそれはもう一方では必然的に体制に対する激しい批判や不満を呼び起こし、連邦と共和国の激しい対立、民族問題の先鋭化、大規模なデモやストライキの要因となり、ゴルバチョフぢあと雨量の基盤に亀裂を生じさせている。

 経済はどうか。ペレストロイカ(ロシア語の意味は、立て直し、あるいは再編)がもともとは経済の立て直し、つまり、ブレジネフ長期政権時代(1964〜1982年の18年間)の最晩年(とくに1979から1982年の4年間)の経済不振の立て直しを最大の目的に出発しながら、現実の経済状態は悪化するばかりであり、1990年のGNPは対前年比2%減、生産国民所得は4%減、工業生産は1.2%減など、主要経済指標が落ち込み(第1表参照)、ソ連史上初めてのマイナス経済成長となった。ペレストロイカはまったくといってよいほど進まず、挫折した。

 ソ連は1990年以降、これまでの中央集権的計画化経済に見切りをつけ、市場経済への移行をめざし始めた。しかしそれはなによりも長期的プロセスであり、シャタリン「500日プラン」のような短期間で実現できるはずがない難事業である。ゴルバチョフ大統領でもエリツィン・ロシア共和国最高会議議長のだれでも、ソ連国内で経済活性化のために選択しうる即効薬は非常に限られており、軍事支出の削減による軍需産業の民需部門への転換、国有企業の民営化、外資導入による合弁事業の活用をてこにした輸出産業の振興などの最重要施策はいずれも長期的課題である。

 ペレストロイカの意味するところは、大きく変化したといえよう。伝統的命令型経済システムを「立て直す」というもともとの意味は薄くなり、抜本的変革、つまり市場経済への移行という本質的に新しい目標を目指す運動を示す言葉に変容している。この点、「ペレストロイカは終わり、パストロイカ(新しい建設)が始まりつつある。」というシャタリン・ソ連アカデミー会員(前大統領会議メンバー)の主張は、言葉の厳密な意味では正しい(『フォーサイトし』誌1991年2月号)。

 市場経済へ移行するためには、何よりもまずこれまでの計画化経済を壊さなければならない。そうしなければ、新しい市場経済システムが機能するはずがない。だが、ソ連の計画経済システムは堅牢であって、容易には壊れないし、これを支える官僚制度は牢固として健在である。しかも、ソ連におけるあらゆる改革は、うえからの改革であり、もっとも急進的な経済改革プランと評価されたシャタリン案でさえ、上で作った改革プログラムであった。そうした状況下では、完了がその気になって動かなければ、何事も動くことがない。こうして、古いシステムから新しいシステムへの過渡期は長引き、ソ連経済は1991〜1992年と続いていっそう悪化する可能性が大きい。

 本稿執筆者はソ連東欧経済研究所副所長 小川和男である。

 


 

ソ連極東経済発展の可能性

―ソ連科学アカデミー極東支部地域総合分析研究所代表団講演会―

 

1.ソ連極東の経済と対外経済関係の展望:ソ連科学アカデミー極東支部地域総合分析研究所 所長 P.A.ミナキル

2.ソ連極東地域の木材産業の現状と問題点:A.S.シェインガウス

 

はじめに

 当会ではソ連科学アカデミー極東支部地域総合分析研究所所長P.A.ミナキル氏以下3名の代表団を招待した機会に、1月28日、ミナキル所長および同行したA.S.シェインガウス氏を招いて、「いかに極東経済を活性化させるか」を統一テーマとする講演会を開催した。そこで本月報ではその講演会の記録を紹介する。

 ミナキル氏は極東地域経済の専門家であり、主著に『極東の経済:展望と加速化』がある。シェインガウス氏は木材の専門家である。

 両氏の所属するソ連科学アカデミー極東支部地域総合分析研究所は、ソ連極東地域経済を専門とするシンクタンクであり、今後、極東経済の発展ばかりでなく、日ソ経済関係の発展のためにも一定の貢献をなすものと期待されている。

 


 

ソ連と韓国・台湾との経済関係

 

1.北東アジアの緊張緩和とソ韓国交樹立

2.ソ韓経済関係の急展開と見通し

3.シベリア・極東開発とソ韓協力

4.ソ連と台湾との経済関係と問題点

 

はじめに

 ゴルバチョフ大統領の新思考外交は、ヨーロッパ再構築の原動力となったが、アジアにおいても国際関係の趨勢を変化させつつある。

 とくに北東アジアの政治環境は、1989年以降、急激に改善され、多国間経済交流を実現する基盤を作り出してきた。

 本稿は、とくに交流活発化のめざましいソ連と韓国・台湾との経済関係をまとめたもので、執筆者は当会ソ連東欧経済研究所 小川和男副所長である。

 


 

韓国の対ソ連・東欧貿易

 

1.韓国の対ソ連・東欧貿易関係の展開

2.市場としてのソ連・東欧

3.韓国の貿易・経済関係におけるソ連・東欧の位置

 

はじめに

 ハンガリーとの間で始まった韓国の対ソ連。東欧外交関係は1990年秋のソ連との国交回復でほぼ完成した。残るはアルバニアのみだが、政治的に見てもあるいは経済的にはそれ以上に主要な対象国とはいいがたい。盧泰愚大統領が就任以来、積極的に展開してきた北朝鮮との関係をにらんだ「北方政策」は、1990年12月の盧泰愚の訪ソと1991年春に予定されるゴルバチョフ大統領の訪韓によって政治的に見ればその第一段階は成功裡に完了したということができよう。

 経済的に見れば、ソ連、東欧、中国などの社会主義諸国との関係改善は韓国の経済関係のフロンティアを拡大するという意味で大きな期待がもたれてきた。後に見るように、その貿易関係は1988年以降、急激に拡大したが、1990年にいたって「ソ連特需」というような過度の期待は後退し、比較的冷静な見方に変わってきたようにも見られる。いうまでもなく、これら諸国の支払能力の問題、急激な脱社会主義経済体制による景気の沈滞など、経済関係が始まってみて初めてこれら諸国の経済が抱える問題の大きさが実感されたという面もあるが、韓国側からみれば、1989年以降の輸出の伸び悩み、ことに第一の市場である米国における競争力の低下が、フロンティア拡大への必要を加速し、過度の期待が醸成されたともいうことができる。

 本稿では1980年代末の韓国のこれら諸国との貿易関係の拡大を跡付けるとともに、その要員を検討し、貿易関係の発展を予測しようとしている。

 執筆者は東京経済大学経営学部服部民夫教授である。

 


 

ソ連のエネルギー生産不振と石油輸出入

 

1.戦後最悪のエネルギー生産

2.危機的状況の石油生産

3.ソ連の石油輸出入動向

 

はじめに

 ソ連は今戦後最悪の石油生産危機に直面している。1990年には前年を3,700万tも下回る史上最大の減産を経験しており、急速に外貨獲得能力を低下させている。

 このまま進めば、ソ連最大の石油産出地域であるチュメニ州が訴えているように、1995年には石油輸入国に転ずることになりかねない。そうなれば、1989年現在すでに585億ドルもの総債務を抱えているソ連の外貨ポジションは危機的な状況に陥ることになろう。こうしたシナリオだけは避けなければならない。

 ソ連の直面している減産の主因は、ソ連経済の極度の悪化や民族対立を反映した石油関連機械・資材供給の停止、労働意欲の減退、投資削減にある。したがって、これら問題が解決されれば、急激な減産に歯止めをかけることがかのうであろう。

 以下、石油生産状況を中心に分析することにする。

 本稿の執筆は当研究所 村上隆によるものである。

 


 

新秩序の国際政治と米ソ関係

―「ペレストロイカ支援」をめぐって―

 

1.東欧援助の展開

2.米ソ通商協定のバランス・シート

3.ペレストロイカの混迷とバルト独立問題

4.ソ連体制の行方と対ソ支援―むすびにかえて―

 

はじめに

 “欧州秩序”、“新世界秩序”の形成期とされる現下の国際政治において、ソ連の体制変革はもっとも不透明な先行きを呈している。今日、西側にとって対ソ政策上の最大の課題は、長期的視野に立ち冷徹な判断に基づいた、ソ連の改革努力への対応戦略の策定である。本稿はこの問題を、米国の対ソ政策を通じて考察するものである。そもそも米国の対ソ経済政策は、軍事的対立国同士の周辺・従属的争点として二国間関係上特異な政治性を帯びているが、ポスト冷戦の国際秩序における米国の役割が問われている今日、米国の対ソ政策から今後の世界像を透視できるといっても言い過ぎではなかろう。なお、このようにきわめて示唆に富み多義的な米ソ関係を解明する際に、米国の対外政策の形成過程の多元主義的性格を理解することと、ソ連の国家体制の持つ自立的ダイナミズムとそれが対外関係に及ぼす影響を見据えることは、最低限の視座とおもわれる。

 本稿は以上のような認識に基づき、“東欧の年”となった1989年に東欧改革先進国向け援助が西側により打ち出されてから、ソ連向け援助の気運が国際的に高まりながら、1991年初頭のバルト諸国での武力行使事件を受け対ソ援助が見直されるまでの期間の、米国の対ソ経済政策および「ペレストロイカ支援」の施策を検討したものである。

 本稿執筆者は、当会ソ連東欧経済研究所研究員服部倫卓である。

 


 

コメコン解体と欧州経済統合

 

1.コメコン解体にいたる風景

2.1989年の東欧変革と1992年EC統合

3.中・東欧諸国のEC加盟の可能性

 

はじめに

 第二次世界大戦の冷戦状況の下で形成された社会主義経済体制としてのコメコン(経済相互援助会議)の解体が迫っている。それは、世界がますますボーダレスと化する世界的傾向の中で、人為的なブロックを形成しようとする時代錯誤的な企ての破綻を意味する。

 一方、統一ドイツ誕生という予期せぬ事態によって微妙な影響を受けつつも、1992年を目標にEC(欧州共同体)統合が着実に進展している。

 こうして欧州では、ナショナリズムの高揚および地域紛争という遠心化の動きを伴いつつも、中・東欧とEC、EFTA(欧州自由貿易連合)が経済的に接近を強めるという新たな状況が生まれている。

 本稿は、コメコン解体の背景、EC・コメコン関係の歴史・現状を検討することをとおして、欧州経済統合を展望するうえでのひとつの見方を閉めそうとしたものである。

 執筆者は鈴木輝ニ氏(東海大学法学部教授)である。