ソ連東欧貿易調査月報

1991年11月号

 

特集◆東欧諸国の1991年上半期の経済動向

T.1991年上半期のポーランド経済

U.1991年上半期のチェコスロバキア経済

V.1991年上半期のハンガリー経済 

W.1991年上半期のルーマニア経済 

X.1991年上半期のブルガリア経済 

Y.1991年上半期のユーゴスラビア経済

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日ソ・東欧貿易月間商況1991年10月分)

ソ連・東欧諸国関係日誌1991年10月分)

対ソ連・東欧諸国・モンゴル輸出入通関実績

1991年月および1 〜月累計)

 


 

1991年上半期のポーランド経済

 

はじめに

 ポーランドでは1990年からバロツェロビッチ蔵相の指導のもとに、急速な市場経済化が進められてきており、これまでインフレの劇的な収束、財政赤字の削減、通貨価値の安定などの成果を収めてきた。しかし1991年に入ると、内外の経済環境の変化によって、深刻なリセッションを経験し、市場経済化に対する批判が高まってきた。

 1991年上半期のポーランド経済は、インフレの収束、物価の高値安定とリセッション、失業者の急増が並存するという状況によって特徴づけられる。ここにきて急速にリセッションが強まった最大の要因は、1991年1月からのコメコン域内取引決済システムの変更(世界市場価格およびハードカレンシィに基づく決済への移行)およびコメコン市場の解体である。ポーランド製品の国際競争力の弱さは西側からの大量の消費財輸入を招いており、旧コメコン諸国との交易を一定維持しつつ、国内産業基盤の近代化を同時に進めることが焦眉の課題となってきた。

 失業率は徐々に上昇しつつあり、一方社会保障費は財政難のなかで十分確保しえないという状況のなかで、社会的緊張が高まりつつある。

 以上の内外の諸問題を抱えた状況のもとで1991年10月に実施された戦後ポーランド初めての完全自由選挙による国会選挙では、ワレサ大統領の与党である中央同盟、ビエレツキ首相(当時)の与党である自由民主会議は不振をきわめた、一方、第1党ぶgはマゾビエツキ前首相の率いる民主同盟、第2等には旧共産党勢力である民主左翼連合がついたが、得票率10%台にとどまった、こうして、小党乱立の状況が生まれ、ポーランドの政治状況は一気に不安定なものへと一変した。

 ポーランドの市場経済化への移行にとって必須的ともいえる政治的安定が崩れたことにより、バルツェロビッチ計画は大きな暗礁に乗り上げたといえよう。

 


 

1991年上半期のチェコスロバキア経済

 

はじめに

 チェコスロバキアでは、クラウス蔵相の主導権のもとで急進的な経済改革が実施され、1991年1月より価格の自由化、貿易の自由化、通貨交換性の回復が実施され、同年2月には1990年10月の小規模民営化法についで大規模民営化法が制定された。

 1991年1〜6月のチェコスロバキア経済は、ポーランドの経験から工業生産の落込みが予想されていたが、現実に1991年1〜6月で17.6%(対前年比)の落込みとなり、現在もリセッションが続いている。また大規模国有企業の民営化は基本計画が作成されたものの、未だ混乱が続いており、軌道に乗るまでにはかなりの時間を要すると思われる。

 政治的には市民フォーラム分裂後、自ら党首となったクラウス率いる市民民主党がプラハなど都市部で支持を受けており、最近の世論調査では30%近い支持率を獲得している。すじゃすインフレ、生産の落込み、民営化の混乱など今後の経済情勢によって1992年6月に予想される総選挙で段階的改革を支持する諸政党の台頭も考えられる。

 


 

1991年上半期のハンガリー経済 

 

はじめに

 1991年1〜6月のハンガリー経済は、コメコン市場の崩壊およびその結果としての生産減少、市場経済移行に付随した混乱。西側製品の大量流入、国内需要の伸び悩みによって、1990年の良好なパフォーマンスとは対照的な困難な状況に直面している。

 上半期の工業生産は前年同期比で14.6%減であり、とくに大規模企業での生産減が著しかった。これは大企業の圧倒的多数がコメコン市場にこれまで特化してきたことと関連している。農業では市場経済化への対応での困難がみられる。

 1990年末に1.7%であった失業率は、1991年1〜2月に急速に増大し、6月末では4.5%(21万8,000人)に達している。物価の上昇率は穏やかではあるが、着実に増大しており、国民の実質所得は低下傾向にある。

 外国貿易は、取引の自由化にともない国際市場の競争にさらされ、大幅な赤字となっている。

 このような困難にもかかわらず、市場経済の基盤整備は確実に進み、特に小規模私有化で目だった成果がみられる。

 今後の課題は、大規模企業の民営化を国際分業を視野に入れた産業構造の転換を踏まえてどう進めるかということである。

 


 

1991年上半期のルーマニア経済 

 

はじめに

 1989年暮れの新体制移行後、ルーマニアでは深刻な経済危機が続いているが、1991年上半期にも経済が上向く兆候は見られなかった。こうしたなかでロマン内閣は、性急とも思える市場経済移行策を押し進め、価格の自由化、民営化の推進等に取り組んできたが、9月に暴徒化した炭鉱労働者の退陣要求を受け、26日総辞職に追い込まれた。

 ロマン内閣の行き詰まりは、経済の荒廃と政治的不安定という悪条件のなかで体制転換を遂げることの困難の現れにほかならない。その意味では、10月に成立したストロジャン連立内閣が政権基盤を若干拡大したとしても、短中期的にルーマニアの直面する客観情勢が好転したというわけではない。

 以下は、工業、貿易、国民生活を中心に、1991年に入ってからのルーマニア経済の動向を示す若干の数値を、断片的ながら紹介するものである。なお、農業の振興はルーマニア国民経済の再建上、死活的な意義を有すると考えられるが、農業の状況を全般的に論じた資料を未入手のため、今回は農業についての記述を割愛せざるをえなかった。

 


 

1991年上半期のブルガリア経済 

 

1.1991年上半期の経済実績

2.経済改革の状況

 

はじめに

 ブルガリアでは、1991年上半期に経済改革のためのさまざまな政策がとられてきたが、政治的混乱の影響で、民主化など重要な経済改革法案の採択が遅れている。また、経済実績では、ブルガリアは旧コメコンの分業体制に組み込まれており、その依存度が非常に高かったため、コメコンの崩壊によって外国貿易が前年同期に比べて半減したのみならず、国内経済も影響をうけ、GDPは対前年同期比22.6%減になり、工業、農業、建設などあらゆる分野で生産が減少した。

 10月13日には総選挙が行なわれたが、国民の選挙に対する関心はいまひとつ盛り上がらず、民主勢力同盟(UDF)の得票率は34.4%で、社会党(旧共産党)を1.2%上回っただけであった。また、トルコ人の政党の「権利と自由運動」(MRF)は7.6%で議会で第3党になった。11月8日には36歳のUDF議長フィリップ・ディミトロフ氏が新首相に選ばれた。

 以上のように、政局は1990年に引続き混迷を深め、経済の先行きも不透明である。

  


 

1991年上半期のユーゴスラビア経済

 

1.内戦のもたらした社会的コストと国民生活

2.1991年1〜9月の生産動向

3.膨大な赤字の累積する企業経営

4.公共支出の動向

5.対外経済関係の動向

  (1)収縮する対外貿易

  (2)EC経済制裁の影響

  (3)対外債務をめぐる状況

 

はじめに

 ユーゴスラビアではがさる6月25日にスロベニア、クロアチアが独立を宣言して以来、事実上の内戦状態続いている、当初スロベニアで発生した軍事衝突は、7月以降はクロアチア共和国内のセルビア人居住地域を中心としてクロアチア南東部からセルビア共和国との境をなす東部のスラボニア地方にまで及び、連邦軍が実質的にセルビア人側支援に回ったこともあり戦闘は急速にエスカレートした、11月に入るとアドリア海の保養地ドゥブロブニクが、ついでクロアチア東部の要衡ブコバルが連邦軍の手に落ち、クロアチアは軍事的敗退を重ねている。またこの間におこなわれたECの調停の試みもいくたびか失敗に帰し、オランダのハーグで継続されている。連邦政府を含めたユーゴスラビアの各当事者、そしてECを交えての和平会議も、停戦のはっきりとした効果をもたらさなかった。ECは11月に示した和平提案をセルビアに拒否されたことから、経済制裁を発動するにいたった。また一方で、クロアチアが国連平和維持軍を自国内の紛争地域で展開することを容認したことで、派遣の検討も本格化しつつある。

 内戦突入以降、ユーゴスラビアにとって連邦政府は事実上機能を停止したままであった。集団国家元首であると連邦幹部会も、1年任期の幹部会議であるメシッチが独立を宣言したクロアチア選出であることから、連邦政府と同様に機能不全に陥っていた。しかし、10月からはセルビア,モンテネグロなどだけで幹部会を一方的に開催するようになった。このなかでマルコビッチ連邦首相とロンチャル外相(いずれもクロアチア人)の解任を決めた。まら、北部の2共和国以外にも、マケドニア、ボスニア=ヘルツェゴビナも主権宣言を採択し、ポスト・ユーゴスラビア連邦への態勢を整えている。このように従来のユーゴスラビアの崩壊と分裂は動かしがたいものとなった。だが、内戦がどのように終結に向かい、この地域での新たな国家の枠組みがどのように構築されていくのかは、依然として見定めがたい状況にある。

 政治情勢の悪化および内戦により、従来のユーゴスラビア国内の経済的相互関係はその大部分が破壊されてしまった。直接内戦にかかわっていない共和国であっても、鉄道や道路の封鎖・破壊などで原材料が確保できなくなったり、製品を出荷できなくなっている。ユーゴスラビア経済の活動力は、上半期の工業が対前年同期比で18%減少から、とりわけ内戦の厳しくなった第3四半期に急速に落ち込んだ(9月の工業生産は対前年同月比約24%減少)。対外貿易も大きく縮小し、外資の新たな流入もほとんどなく、なおかつ対外債務の支払いはますます困難になっている。内戦の停止が実現しても、ユーゴスラビア諸地域の経済再建の道はきわめて厳しいものとならざるをえないだろう。