ソ連東欧貿易調査月報

1992年5月号

 

T.1991〜1992年のポーランド経済

U.1991〜1992年のチェコスロバキア経済

V.1991〜1992年のハンガリー経済

W.1991〜1992年のルーマニア経済

X.1991〜1992年のブルガリア経済

Y.1991〜1992年のユーゴスラビア経済

Z.1991〜1992年のアルバニア経済

[. 1991〜1992年のモンゴル経済

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旧ソ連・東欧貿易月間商況1992年4月分)

旧ソ連・東欧諸国関係日誌1992年4月分)

CIS・グルジア・東欧諸国・モンゴル輸出入通関実績(1992年3月および1〜3月累計)

 

 


 

1991〜1992年のポーランド経済

 

.  1991年のポーランドの経済実績

.  1992年のポーランド経済

 

はじめに

 1991年のポーランド経済実績は、1990年以来の急速な市場経済化のプログラム実施に一定の手直しを迫る内容となった。すなわち、インフレの収束、自国通貨の国内交換性の回復、私的セクターの急増という成果を生みながらも反面、深刻な不況と大量の失業に見舞われ、体制転換が容易ならざる課題であることを示した。

 こうして、国民のペシミスティックな感情が広がる中で1991年10月に実施された戦後初の完全自由選挙による国会選挙が実施された結果、ビエレツキ内閣は退陣し、オルシェフスキを首班とする内閣が成立した。新政府の発足に伴って、これまでポーランド経済改革を主導してきたバルツェロビッチは閣外に去ることになった。これは、ポーランドの経済改革が大きな曲がり角に差し掛かったことを予感させるものであった。

 オルシェフスキ内閣は、IMFの緊縮プログラムの実施と国民の生活状態の改善という、2つの課題を同時に実施しなければならず、また少数与党政権という弱点も加わって、今後、困難な政治運営を迫られることになろう。

 1989年の東欧革命で先駆的役割を果たしたポーランドは、今、政治の不安定な状況によって、その足元を大きく揺さぶられようとしている。

 


 

1991〜1992年のチェコスロバキア経済

 

.  1991年のチェコスロバキア経済

.  1992年のチェコスロバキア経済

 

はじめに

 チェコスロバキアは1991年初頭から価格の自由化、通貨の交換可能、民営化をはじめとした経済改革を開始した。その結果、生産面では大幅な不振が生じたものの、ハイパーインフレーションは回避され、物価も安定し、経常収支も黒字となり、ある程度の成果をあげることができた。

 1992年は一層の民営化(大規模民営化)、そして税制改革などの次の段階の経済改革を断行しつつある。このように、他の東欧諸国に比較して、経済は安定化しているが、失業率の増大に見られるような社会不安要因もみのがせない。チェコスロバキアでは、チェコ共和国とスロバキア共和国の経済格差が存在し、失業率も大きな差を生じており、これが民族対立を助長する可能性もある。6月には国政選挙が行われ、現在の政府の政策に対する国民の審判がなされ、ようやく新の新生チェコスロバキアがスタートする。

 


 

1991〜1992年のハンガリー経済

 

.  1991年のハンガリー経済

.  1992年のハンガリー経済

 

はじめに

 新政権成立後2年目を迎えた1991年、ハンガリーでは政府に対する失望が高まり、国民の間には政治に対する不信と無関心が強まっており、また主要政党内部に流動化の動きが顕在化しつつあるが、全体としては(表面的には)平穏な政治的安定が支配していた。

 一方、経済分野では、テクノクラート主導の元で市場経済への移行が着実に進行し、いくつかの分野を除き市場経済のための制度整備はおおむね最終局面にいたった。

 しかし実体経済においては、対外経済関係分野で肯定的な傾向が継続する一方、国内経済パフォーマンスは交代と漸進が複雑に錯綜しつつ、全体としては大幅な後退に終わった。旧コメコン市場の崩壊、コメコン市場に大きく依存いていた国営大工業企業と農業の不振、政府各四党の内部で高まる旧政権時代以来のテクノクラートへの攻撃、長引く所有関係再編プロセスがその主要背景であった。

 1991年の落ち込みが大幅だったため、1992年には経済の後退過程もそこを打ち、若干ながら上向きに転ずるという観測が目下有力である。EC準加盟の実現、ダイナミックな直接投資(導入)が明るい材料である。

 表面上平穏な政治情勢とは裏腹に、各政治勢力内部で再編の動きが顕在化してきたのが1991年の特徴である。

 政権内部では農地の再私有化(元の所有者への返還)をめぐり、与党第1党の民主フォーラムと与党第2党の独立小地主党の対立が先鋭化した。後者は、しばしば連立離脱をちらつかせることで民主フォーラムをけん制しつつ、3月末に一旦彼等の主張に沿った損害補償法(社会主義下で不当に奪われた資産に対する部分的補償が目的)を成立させたが、ゲンツ大統領(野党第1党の自由民主連合出身)が同法案への署名を拒否し、(元所有者への自動的返還を断念し、返還要求資格者達によるセリ方式を導入)6月末に再度成立させた(7月公布)。

各党内部でも流動化が進行している。

 民主フォーラムでは1991年2月中旬にリベラル派指導者キシュを中心に国会議員52名が指導部に反対する文書に署名した。フォーラムではアンタル首相の主流派のほかにチュルカを中心とする民族主義的右派、ベーケらのリベラル左派が存在するといわれ、前2者は国民の間での人気の低迷に危機感を深め、主要ポストへの支持者任命、旧政権以来の各層指導者達の追放で基盤強化を図ろうとしている。この傾向をもっとも露骨に表明したのが8月末のフォーラム派議員の秘密集会で発表されたコーニャ国会議員団長の情勢報告であった。このなかでコーニャは、西側ジャーナリズムの間にハンガリーが民主化したとの認識が定着したなどを理由に、マスコミへの規制強化、旧体制遺体の専門家の追放、旧社会主義労働者等(共産党)や青年どう目、労組、人民戦線の指導者達への年金支給停止などを呼びかけた。事実11月には、一旦こうした内容の法律が議員立法で可決された(いわゆる「ゼーテーニュ・タカーチ法」)。但しこの法律は憲法裁判所により違憲判定を下され発効しなかった。一方、こうした流れに対し、リベラルな立党理念への復帰をスローガンに新たに分派(プログラム派)が、26名程度の議員の参加を得て結成された。

 独立小地主党でも、フォーラムに対する態度が微温的だとしてより強硬派のトルジャーンが指導部攻撃を強め、6月末に前党首ナジからポストを奪取した。しかし国会議員の間では支持が少ないとされる。

 自由民主連合においても、より強力な指導者を求める下からの声が高まり、10月に党首が交代した(キシュからトルジェッシへ)。

 一方、社会党(前政権党)は、政変後の機器を乗り切ったようだ。1991年前半に実施されたブタペスト第7区国会補欠選挙において、民主フォーラム、自由民主連合と戦い、勝利を手にしている(ただし投票率はきわめて低かった)。自由民主連合との連携強化を探る動きも進行中であり、秋には両党間の協力に関する話し合いが持たれた。ここでは、西欧型社会民主党結成の呼びかけも出されたとされる。指導者交代を求める越えは社会党にもある。結成当時の党首ニェルシュはすでに1990年総選挙後にホルンにその座を譲ったが、さらに若い指導者を求める要求があることをホルンも認めている。

 元社会党副党首ポジュガイは1990年に離党し、1991年により民族主義的とされる国民民主党を創設した。

 自由民主連合の理念に近い青年民主連合は、1991年末の世論調査で支持率を大幅に高めている。

 このように1991年は、ハンガリーの政治地図が今後大きく変化する可能性を一段と強めた1年間であった。

 


 

1991〜1992年のルーマニア経済

 

.  1991年のルーマニア経済

.  1992年のルーマニア経済見通し

 

はじめに

 1989年の「12月革命」を経て、政治・経済の改革に取り組んできたルーマニアは、新体制移行後2年以上経た現在も、未だ厳しい局面を抜け出ていない。

 政治面では、1990年夏の発足から改革に取り組んできたロマン首相の救国戦線評議会内閣が1991年9月の炭鉱労働者の暴動により退陣に追い込まれ、同国の政治的不安定はまたも露呈された。与党救国戦線はこれを受けて主要野党を取り込んだ連立内閣(ストロジャン首相)を成立させ混乱の袖手を拾ったが、同国の政治はまだまだ流動的な状況にあるといえる。

 1992年に入って2月には革命後は革命後初の統一地方選挙が行われた。救国戦線はかねてから勢力後退が明らかになっていただけに、この選挙での敗退も予想された。だが実際には、農村部を中心に多数の議席・ポストを占め、むしろ「しぶとさ」を見せつけた。なお、3月には救国戦線からイリエスク(大統領)派の保守派が分離し、同等の寄り合い所帯的性格かR十分予想されていたとはいえ、ついに与党分裂の事態となった。

 一方、このところ勢力伸長の著しい改革志向の「市民同盟等」は地方選挙では、ブカレストをはじめ大都市で勝利を収めたものの、救国戦線にとって変わるほどの躍進は果たせなかった。むしろ、経済的・政治的手詰まりのなかで、ルーマニア人及び少数民族の双方の民族主義政党が影響力を拡大している。

 おりしも、今年6月以降に議会及び大統領選挙が行われることになって入るが、もはやこれまでのような救国戦線主導での国政運営に壁が突き当たっていることは明らかである。救国戦線自体の変質も含めて、政治勢力の再編成がダイナミックに進んでいくことが予想される。

 外交問題としては、「モルドバ問題」が急浮上してきた。周知のとおり、旧ソ連モルドバ共和国は基本的に第2次大戦時にルーマニアがソ連に奪われたベッサラビアの地からなっており、1989年時点でルーマニア系住民が64.5%を占めている。同共和国は1991年8月のソ連保守派のクーデター失敗直後に独立を宣言、同年12月にソ連が消滅したことを持って正式に独立国家となった。民族的同質性からして、ルーマニアとモルドバが統合に向かうことも考えられるが、両国とも低開発と政治的不安定を抱えているだけに双方のためらいも大きく、ドイツ統一のような急激な展開とはなりそうも無い。

 こうしたなかで、経済面では、悪条件にもかかわらず、(むしろそれゆえに)急進的な市場経済移行を目標に改革がすすめられているが、その成果ははかばかしくなく、むしろ混乱が蔓延していることは以下に見るとおりである。

 


 

1991〜1992年のブルガリア経済

 

.  1991年のブルガリアの経済動向

.  1992年のブルガリアの経済政策

.  1992年第1四半期の経済

 

はじめに

 ブルガリアでは市場経済を目指し、1991年に入って様々な経済関連法案が議会に提出され、その制定が進められてきた。しかし最重要法案の一つである民営化法の制定は、政治的混乱のために遅れており、1991年の経済は1990年よりさらに悪化し、GDPは3年連続して減少し、工業、農業などほとんどの分野で生産は減少した。

 政治面では、1991年10月13日に総選挙が行われたが、国民の関心は低く、民主勢力同盟の得票率は37.4%、社会党(旧共産党)は32.2%、トルコ人の政党「権利と自由運動」は7.6%であり社会党は依然として大きな勢力を占めた。11月8日には若干36歳の民主勢力同盟議長のフィリップ・ディミトロフ氏が新首相に選ばれた。また、1992年1月12日には初めての国民の直接選挙による大統領選が実施された。しかしどの候補も50%以上の得票率が得られず、19日に第2回総選挙が行われた結果、ジェレフ大統領が52.85%の支持を得て当選した。

 依然として社会党の勢力が大きいため、経済改革を進める上で政治的混乱を避けることはできそうも無い。ブルガリア政府は、1992年末には経済回復の兆しが見られることを期待しているが、ブルガリア経済の先行きは不透明である。

 


 

1991〜1992年のユーゴスラビア経済

 

.  1989年末の市場経済化プログラム

.  1990〜1991年前半の経済動向とユーゴスラビア連邦の崩壊

.  1991年後半以降の旧ユーゴスラビアの経済情勢

 

はじめに

 ユーゴスラビア経済は、1989年末以降市場経済化プログラムを実施したが、それはハイパーインフレーションに代表される経済危機の克服プログラムと、本格的な市場経済導入=経済体制転換プログラムの2つのサブ・プログラムから構成されてきた。この実施のプロセスは非常に大規模なものであり、経済的変動にとどまらず、社会的。政治的激動までをも引き起こした。つまり、着手してから1年半経過した1991年6月以降、ユーゴスラビア連邦においては本来意図された経済的安定が達成される代わりに、スロベニア共和国とクロアチア共和国の分離独立宣言と、それに続く悲惨な殺りく合戦が発生したのである。こうした事態、とくに異なる民族間の殺りく合戦については、1989年末にユーゴスラビアが経済危機の抜本的克服に乗り出したとき、大部分の人々はその危機性には気づいてはいたであろうが、それが実際に現実の出来事になろうとは恐らく創造していなかったに違いない。むろん、1989年末の市場経済化プログラムの実施がユーゴスラビア連邦崩壊に直結したと結論すけることは困難であろうが、しかしそこにはかなり強い因果関係があったと考えられる。

 いずれにしても、1991年6月25日のスロベニア共和国とクロアチア共和国による一方的独立宣言の結果、ユーゴスラビア連邦は事実上解体するに至った。そしてその後の内戦を経て、1991年12月23日にドイツが両国を国家として承認したのに続き、1992年1月15日には欧州共同体(EC)も両国を国家として承認する運びとなった。こうしてユーゴスラビア連邦は国際的にもその解体が承認されることになった。

 本稿では以上のような背景を念頭に入れ、最初に1989年末に実施された市場経済化プログラムの内容を吟味する。継いでそのプログラムが直接影響を与えた1990〜1991年前半のユーゴスラビアの経済動向を調べる。そして最後に、1991年後半以降の旧ユーゴスラビア連邦の経済動向を簡単に点検する。

 


 

1991〜1992年のアルバニア経済

 

.  1991年の経済動向

.  1992年のアルバニア経済

 

はじめに

 アルバニアでは1991年3月に戦後初の複数政党による人民議会(国会)議員選挙が実施され、その結果、労働党(6月に社会党に党名変更)が引き続き政権を維持し(ナノ内閣)、大統領にはアリア労働党第1書記が就任した。だが、5月のゼネストに見舞われたナノ政権は6月には総辞職し、野党民主党との与党連立内閣が成立することになった。(ブフィ内閣)。ここに労働党による一統単独政権は終止符を打たれることになった。

 こうしたなかで、アルバニアは、西側への急速な接近を図ることになる。すなわち、1991年3月に米国との国交回復を実現したのを皮切りに、5月には英国との国交を回復、6月にはCSCE(全欧安保協力会議)に加盟すると共に、ECとの外交関係を樹立、9月にEBRD(欧州復興開発銀行)加盟を実現した後、10月にはIMF・世銀への加盟を果たした。一方、国内の経済改革では、価格自由化、銀行改革を除けばほとんど成果がみられず、事実上、西側の経済支援にすがることによって経済活動を維持してきた。

 1991年12月初、民主党は総選挙の早期実施の要求が受け入れられないことを理由に社会党との連立を解消した(その後アフメティ食品相が新首相に任命された)。

 1992年3月には複数政党制移行後の2回目の総選挙が実施されたが、結果は民主党の圧勝で、社会党は、25%の得票にとどまった。ここに戦後46年間続いた社会党(旧労働党)支配に終止符が打たれることになる。4月にはベリシャ民主党党首が大統領に就任、首相にはメスクシ氏が選出された。

 アルバニアは新政権の下で、西側との経済関係の強化を柱に、IMFとの協議を進めながら、経済改革を加速し様としているが、その前途は多難である。

 


 

 1991〜1992年のモンゴル経済

 

.  1991年のモンゴルの経済

.  1992年のモンゴル経済

 

はじめに

 モンゴルでは1992年1月、新憲法が採択され、2月12日から施工された。新憲法からは「社会主義」という表現が削除され、国名は、「モンゴル人民共和国」から「モンゴル国」へ変わった。

 基本的な政治改革は既に1990年に終わり、新政権の下で1991年以降、経済改革がすすめられている。しかしソ連からの援助がなくなり、また従来のソ連・東欧との経済協力関係が崩壊した影響は、モンゴルにとって余りにも大きな打撃となっている。当面、モンゴルの国民生活を維持するうえでは、外国及び国際機関の支援・協力はかかせない。

 長期的には独自の資源と生産力を生かして経済発展を図ることを目標としており、そのために外資導入を積極的に図りたい移行である。体制変革に伴い、貿易取引相手国も変化しつつあり、中国、日本、韓国、シンガポールなどアジア諸国のほか、ドイツ、米国、英国などとの経済関係が活発化しつつある。ただ、最大の取引相手であるロシアとの間では、特にモンゴルにとって不可欠の石油が輸入されており、またモンゴルにとってもロシアは重要な市場であることから、取引関係の再構築が課題である。