ロシア東欧貿易調査月報

1993年5月号

 

T.1992〜1993年のポーランド経済

U.1992〜1993年のチェコおよびスロバキア経済

V.1992〜1993年のハンガリー経済

W.1992〜1993年のルーマニア経済

X.1992〜1993年のブルガリア経済

Y.1992〜1993年の旧ユーゴスラビア経済

Z.1992〜1993年のアルバニア経済

[.1992〜1993年のモンゴル経済

\.1993年1〜3月のロシア経済

◇◇◇

旧ソ連・東欧貿易月間商況1993年4月分)

旧ソ連・東欧諸国関係日誌1993年4月分)

CIS・グルジア・アゼルバイジャン・東欧諸国・モンゴル輸出入通関実績(1993年3月および1〜3月累計)

 

 


 

1992〜1993年のポーランド経済

 

1.  1992年のポーランド経済実績

2.  1993年のポーランド経済

 

はじめに

 1992年はポーランド経済にとって、1990年以来続いてきた経済の壊滅的低下を脱し、回復に転じる年となった。しかし、産業構造のリストラは、国内資本不足および民営化の停滞によって、一向に進まず、将来の安定的な経済成長に対し、疑問を投げかけている。この国内資本不足を補うべき外資の流入も、国内の政治的不安定さを理由に滞っており、ポーランド工業製品の国際競争力をつけるうえでの最大のマイナス要因となっている。

 スホツカ内閣は、IMFの融資を再開するべく、経済改革をいっそう推進させようとしているが、政権基盤の脆弱さが露呈し、一貫した政策を実施し得ないでいる。

 強力で安定的な政権の樹立が最大の政治課題となっている。

 


 

1992〜1993年のチェコおよびスロバキア経済

 

1.  チェコ・スロバキアの1992年の主要経済動向

2.  物価、失業動向

3.  対外関係

4.  1993年のチェコおよびスロバキア経済

 

はじめに

 70年余り続いたチェコ・スロバキア国家は、1992年を持って分離し、1993年1月1日からチェコ共和国とスロバキア共和国の2つの国家となった。1993年は1990年に採択された『経済改革シナリオ』の改革の仕上げの年であり、1992年6月の総選挙を受けた新生チェコ・スロバキアのスタートの年になる予定であった。しかしながら、実際は国家分離というまったく新たな事態の転換により、この「経済改革シナリオ」にも狂いが生じてきている。すなわち、両国は予想以上に早い1993年2月上旬にチェコ・コルナ、スロバキア・コルナという独自の通貨導入に踏み切らざるを得なくなり、両国貿易も税関システムの導入により急速に縮小しつつある。1992年末までに実現されつつあったインフレの沈静化と工業生産の安定化が、これらの経済混乱により難しくなりつつあり、両国の経済成長回復の遅れが懸念され始めている。また、国家分離と同じ時期の導入となった付加価値税の導入による物価の上昇も大きくなりつつある。とりわけ経済力において劣り、チェコとの貿易にも依存の程度が高いスロバキアにおいて、経済状況の悪化が心配されている。

 ロシア東欧諸国の中で、インフレと失業の抑制に成功し、政治・社会の安定を保ってきたチェコとスロバキアは、1993年に入り、政治・経済の両面において乗り越えるべき大きな困難に直面している。

 


 

1992〜1993年のハンガリー経済

 

1.  1992年のハンガリー経済

2.  1993年のハンガリー経済

 

はじめに

 ハンガリーでは今年2月11日にクパ蔵相が就任した(後任には前工商大臣が就任)。実質的には1994年春の総選挙を射程に入れ、経済パフォーマンスの改善を狙うアンタル首相による更迭であったといわれる。クパ前蔵相は「政府経済4ヵ年プログラム」(いわゆるクパ・プログラム)の立案者として有名であるが、彼の「辞任」は、彼の経済運営にマイナスの判定が下されたこと、つまり今後の経済運営に大きな変化が現れる可能性が強いことを示唆している。事実、クパ・プログラムによれば1992年にはGDPは2〜3%増加し、投資の縮小過程もストップするはずであったが、現実には両者とも大幅な低下を続けた。陰鬱な国内経済実績と好調な対外経済実績という1990年以来の傾向が、1992年にも基本的に支配していたのである。1992年には前年まで年2〜4%減程度の生産減少でかろうじて持ちこたえてきた農業も、空前の干ばつがあったとはいえ、実に2割以上の落ち込みを見せた。

 新政権樹立後丸3年が経過し、比較的安定した政治状況におけるこの政権の経済運営実績が問われる時期に来ている。前(社会党)政権時代に開始された市場経済化路線が、新政権のもとで継承され、より徹底された結果、市場経済の構築が―国営企業の民営化を除き―ほぼ完了した一方、イデオロギー過剰政策の犠牲となった農業が崩壊の淵に立つなど、状況はかなり複雑である。好調な対外経済関係も、これに最も貢献した農業が不振となり、また1991年まで東欧全体への西側投資の約半分を占めたとされる直接投資についても1992年後半からダイナミズムの顕著な低下、外資側の関心のチェコへのシフトなどが指摘されており、事態は楽観を許さなくなってきている。

 


 

1992〜1993年のルーマニア経済

 

1.  1992年のルーマニア経済

2.  1993年のルーマニア経済―1993年の予算案と経済見通し―

 

はじめに

 1989年暮れの民主革命後、ルーマニアは救国戦線の政権の下で経済再建に努めてきたが、1991年の9月に政権内部と炭鉱労働者の暴力事件によりロマン政権が倒れ、ストロジャン連立内閣がこれを引き継いだ。1992年に入って、2月の統一地方選挙で民主野党が救国戦線を脅かし、さらに3月の全国大会で救国戦線が分裂するなど政治勢力間の主導権争いが活発化した。こうした中で、ストロジャン内過去は意欲的に経済安定化に取り組み、内外から高い評価を得るにいたったが、旧体制の負の遺産が重いためにその成果ははかばかしくなく、むしろ改革の穏健化を求める声が高まった。

 このような風潮の中で、1992年9、10月に実施された革命後2度目の自由選挙では、救国戦線から別れでた保守系の民主救国戦線が議会第一党の地位に納まると共に、同党の推すイリエスク氏が大統領選再選をはたした。同党と保守、民族主義政党の支持により、経済官僚のヴァカロユ氏を首相とする表向きは無党派の少数派内閣が11月に成立した。

 ヴァカロユ内閣の成立は、ルーマニアの市場改革が後退するのではないかという懸念を内外に抱かせたが、これまでのところ、危惧されたほどの政策の転換は見られないようである。1993年2月にはECとの連合協定が無事調印されているし、3月には首相が今後4年間の包括的な経済改革計画を示し、議会もこれを承認している。

 以下は、ルーマニアの統計国家委員会、欧州開銀、OECDなどの刊行物に掲載された情報に基づく、1992年のルーマニアの経済実績と1993年の見通しである。なお、これらの刊行物は基本的には同じ情報源(すなわちルーマニア統計国家委員会)に基づいていると見られるが、方法論の違いによるものか、データ間の不一致や不整合がしばしば見られる。そこで本稿では、信憑性があると思われる数値をそのつど選択する形で構成しており、その意味で必ずしも一貫したものではないことをお断りしておく。

 


 

1992〜1993年のブルガリア経済

 

1.  1992年のブルガリアの経済動向

2.  1993年のブルガリア経済

 

はじめに

 ブルガリアでは、1992年もまた政局は安定せず、1992年9月17日に民主勢力同盟の国会議長が不信任となって辞任したのを皮切りに、10月28日にはディミトロフ氏が不信任案可決によりじにんした。ブルガリアの憲法によって、第1党の民主勢力同盟がディミトロフ氏を首相に再指名したが、11月20日に国会で可決され、内閣組閣権は第2党の社会党(旧共産党)にうつった。社会党は旧共産党時代の反体制運動家ボヤジジェフ氏を指名したが、ボロジジェフ氏がフランスの市民権を有していることが発覚し、同氏の氏名は却下された。次に第3党のトルコ系政党「権利と自由のための運動」に組閣権が移ったが、同党は民主勢力同盟に首相指名権を譲り、首相候補の選択で様々な衝突はあったものの、最終的に経済学者のリュベン・ベロフ氏が12月30日首相に選出された。

 ブルガリアの新しい内閣のメンバーは以下のとおりである。

  主証券外相代行:リュベン・ベロフ    Lyuben BEROV

  副首相兼商業相:ヴァレンチン・カラヴァシェフ    Valentin KARAVASHEV

  副首相兼運輸相:ネイチョ・ネエフ    Neycho NEEV

  副首相兼社会保障相:エフゲニー・マチンチェフ    Evgeny MATINCHEV

  財務相:ストヤン・アレクサンドロフ    Stoyan ALEXANDROV

  国防相:ヴァレンチン・アレクサンドロフ    Valentin ALEXANDROV

  内務省:ヴィクトル・ミハイロフ    Viktor MIHAILOV

  司法相:ミショ・ヴルチェフ    Misho VULCHEV

  工業相:ロウメン・ビコフ    Roumen BIKOV

  農業相:ゲオルギー・タネフ    Gergy TANEV

  保健相:タンチョ・ゴウガロフ    Tancho GOUGALOV

  教育・科学・文化相:マリン・トドロフ    Marin TODOROV

  環境相:ヴァレンチン・ボセエフスキー    Valentin BOSEEVSKY

  地域発展・建設相:フリスト・トエフ    Hristo TOEV

 

 一方、上記のような政治的な混乱はブルガリアの経済に悪影響を与えており、1992年のブルガリア生産国民所得は対前年比で22%減少した。他の首相経済指標をみると、貿易はプラスに転じたものの、工業生産高、農業生産高、小売商品売上高も前年と比較して大幅に落ち込んだ。国民生活は、物価の急上昇、失業者の増大などによって圧迫されている。新政権になってからも石油製品の値上げや電話、郵便、電気、暖房、などの料金の値上げが行われ、国民の不満は高まっている。

 対外関係においては、ブルガリアは、1993年3月8日にEC連合協定(準加盟)に関する協定に調印し、1993年3月29日にはEFTAと自由貿易協定所に調印した。ECおよびEFTAとの対外関係は拡大しており、とくにEC諸国との貿易高は大きな伸びを見せている。

 ブルガリアの経済が回復するには、政治的な安定と対外関係の発展が重要であろう。

 


 

1992〜1993年の旧ユーゴスラビア経済

 

1.  旧ユーゴスラビア連邦構成共和国の相対的な経済的位置

2.  新ユーゴ連邦の最近の経済情勢

3.  クロアチア共和国の最近の経済情勢

 

はじめに

 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴスラビア連邦)は、1991年6月28日におけるスロベニア共和国とクロアチア共和国の一方的独立宣言を持って、事実上崩壊するに至った。そしてその後の内戦を経て、1991年末から1992年前半にかけてのECをはじめとする世界の多数の諸国によるスロベニア・クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナの旧ユーゴスラビア連邦構成共和国の承認により、公式的にも旧ユーゴスラビア連邦の崩壊が確認されることとなった。この間の連邦崩壊と共和国独立のプロセスは、当事者であるこれら共和国間(特にセルビア共和国と)の事前の十分な相互承諾なしに強行されたため、現在でも解決のめどさえ立たないほどの激しい内戦に突入したのである。

 ところでこのプロセスは、単なる国家分裂・新国家樹立のプロセスではなく、社会主義的政治・経済体制から資本主義的政治・経済体制への大転換のプロセスにともなって発生した。そのため現在、旧ユーゴスラビア連邦諸国は、国家単位の変更と政治・経済体制転換が同時に起こるという複雑極まりない状況に置かれている。したがって、いずれ将来訪れるであろう平穏な政治的・経済的「均衡」状態に至るまでの「過渡期」においては、旧ユーゴスラビア連邦を構成した各共和国はきわめて厳しい、かつ困難な舵取りを要求されることになるだろう。そして現時点でこの過渡期がいつまで続くのかについて、明白な展望はない。

 現在、旧ユーゴスラビア連邦は5つの国家に分裂している。「ユーゴスラビア連邦共和国(セルビア共和国とモンテネグロ共和国から構成:新ユーゴ連邦と略称)」、スロベニア共和国、クロアチア共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国、マケドニア共和国である。ただしこのうち国境線がほぼ確定しているという意味で安定した国家とみなせるのはスロベニア共和国だけである。それ以外は非常に不安定な国境線を抱えている。特にボスニア・ヘルツェゴビナ共和国は現時点で事実上崩壊しており、国家としての体裁をまったくなしていない。このような状況の中で、各共和国は一方で対外・対内戦争を戦い、他方で政治・経済体制の転換を遂行しているのである。このように現時点で、旧ユーゴスラビア構成共和国は、それぞれ異なる困難に直面しているのであるが、それを第1表により詳しく見ておこう。

(第1表 略)

この表が示すように、現時点で各共和国は、通常の経済状態と比べて、4つの分野で追加的付加を受けていると考えられる。「軍事費」、「難民収容費」「戦災復興費」、「体制転換費」の分野である。ただしその追加的負荷の程度は、各国別に異なる。相対的に最も負荷の小さいのはスロベニアで、特に軍事費と戦災復興費ではその追加的出費はほぼゼロである。これとは逆に、直接国境をめぐって対峙しており、またボスニア・ヘルツェゴビナ共和国で間接的に内戦を戦っているセルビアとクロアチアは、同時に体制転換をも遂行しつつあり、上記のどの分野でも(ただしセルビアの戦災復興費は除く)多大な出費を迫られている。これに対し、マケドニアは現時点では直接戦争には巻き込まれていないが、政治的・軍事的緊張は非常に高まっており、軍事費と難民収容費ではかなりの出費を迫られている。最後に、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国であるが、周知のように、この国は全面的に内戦に巻き込まれており、通常の国家形態では存在していない。それゆえ他の共和国と同じ意味では、追加的経済負荷の程度を判定することはできない。

 以上が現時点での旧ユーゴスラブア連邦構成共和国の現状であるが、本章では、このような中で、各共和国がどのような経済運営を迫られているのかについて、新ユーゴ連邦とクロアチア共和国のケースを取り上げ、少し詳細に考察する。ただし、本論に入る前に、全体の関連を明らかにするため、旧ユーゴスラビア連邦各共和国の相互の位置関係を、連邦分裂以前の時点で、確認しておく。そのあとで、新ユーゴ連邦とクロアチア共和国の実情を検討する。

 


 

1992〜1993年のアルバニア経済

1.  1992年の経済動向

2.  1993年のアルバニア経済

 

はじめに

 アルバニアでは、1992年8月から、IMFの主導のもと、民主党メクシ政権によって経済改革が開始された。価格の自由化、農地の私有化などが実際に動き出したが、今のところ、改革にともなう混乱のほうが目立っている。

 経済は、下半期から、回復へ向けた動きが見られるが、西側の支援に大きく依存した生産活動がしばらくの間は続くことになろう。

 近年は、近隣のボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、コソボ自治州でのアルバニア系住民の保護、イスラム勢力との関係など、アルバニア民族主義の台頭が見られ、新たな火種になる可能性を秘めている。

 1993年は、農業分野の再建を中心とした経済の安定化に重点を置いた政策が、西側支援を前提に実施されることになろう。

 


 

1992〜1993年のモンゴル経済

 

1.  1992年のモンゴル経済

2.  1993年のモンゴル経済

 

はじめに

 モンゴルでは、1990年に政治改革が始まり、1991年には「社会主義」という表現が削除された新憲法が施行され、国名からも「社会主義」の文字が消えた。経済改革も1991年から本格化し、中央計画経済から市場経済への移行を目指している。しかし、東欧での変革やソ連邦の崩壊によって、とくに旧ソ連からの借款や支援が突然ストップし、貿易も激減したため、モンゴル経済は大きな打撃を受けた。

 1990年以来モンゴルの経済成長はマイナスに陥っており、1992年には現行価格では前年よりGDPは増加しているものの対比価格(1986年価格)では19%減少している。モンゴルでは連立政権が資産の民営化を進めており、国営企業の株式会社化、商店、サービス部門の民営化などが行われているものの、経済が上向きになるのは1995年以降になるという中期予測も出されており、市場経済移行には時間がかかるであろう。

 


 

1993年1〜3月のロシア経済

 

1.  概況

2.  財政・金融

3.  物価

4.  社会領域

5.  民営化

6.  工業

7.  農工コンプレクス

8.  基本建設

9.  運輸・通信

10.対外経済関係

 

はじめに

 このほど、ロシアの『経済と生活』紙(No.17,1993年5月)に、統計国家委員会の発表した1993年第1四半期(1〜3月)のロシアの栄財実績が掲載されたので、これを抄訳して紹介する。

 1992年前半のガイダル・チームによる急進的な経済改革、その反動としての産業派、中間派の対等を受け、ロシアは1992年までに憲法危機、政治危機という様相を呈することになった。権力の分立をめぐる論争と政策路線の対立に、政治家の個人的確執が拍車をかけた。12月の人民代議員大会では、妥協的な閣僚人事でひとまず問題が先送りされたものの、4月に行われることになった国民投票をめぐって対立が再燃、3月の臨時人民代議員大会の投票中止の決定を受けエリツィン大統領が「特別統治体制」の導入を表明するなど、モスクワは権力闘争の舞台と化した。結局4月の国民投票ではエリツィン大統領が新任を受けたものの、新憲法の採択という最大の懸案を残しており、改革の推進を可能とするような政治体制の確立には更なる紆余曲折が予想される。

 こうした中で、ロシア経済の機能不全は深刻の度合いをましており、1993年第1四半期においても、国内総生産は16〜18%以下、工業生産は19%低下し、月別のインフレ率は20%を超えている。その一方で、中央政界の泥試合をよそに、進行ビジネスが台頭し、地方が独自に改革に取り組むなど、新しい現象が出てきている点にも注目する必要がある。