ロシア東欧貿易調査月報

1994年5月号

 

T.1993〜1994年のポーランド経済

U.1993〜1994年のチェコ経済

V.1993〜1994年のスロバキア経済

W.1993〜1994年のハンガリー経済

X.1993〜1994年のルーマニア経済

Y.1993〜1994年のブルガリア経済

Z.1993〜1994年のモンゴル経済

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旧ソ連・東欧貿易月間商況1994年4月分)

旧ソ連・東欧諸国関係日誌1994年4月分)

CIS・東欧諸国・モンゴル輸出入通関実績(1994年3月および1〜3月累計)

 

 


 

1993〜1994年のポーランド経済

 

1.   1993年のポーランドの政治経済

2.   1994年のポーランドの経済見通し

 

はじめに

  体制の転換の開始が宣言されてから、はや4年余の歳月が経過した。この間、ポーランドは、大戦間の大恐慌にもたとえられる、激しい経済後退を体験したが、ようやく1992年に入り、ポーランド経済は回復する兆しをみせ始めた。1993年も、経済回復の傾向は維持され、体制転換によって引き起こされた経済不況のトンネルから抜け出す気配をみせている。依然として経済活動の縮小が続く東欧諸国のなかにあって、ポーランドの経済回復傾向は、明るい材料である。とはいえ、ポーランドの経済が体制転換の過程で支払わざるを得なかったコストも甚大であった。

 確かに、経済システムの変革に呼び覚まされて、ポーランド社会は大きく変わりつつある。好ましい変化も少なくない。だが、その一方で、犯罪の増加、民族主義の台頭、解雇への恐怖など、新たな社会不安が高まってきている。その背景には、激しい生産の落ち込み、消費水準の低下、大量失業の発生、貧富差の拡大等々、旧制度のもとでは想像すらできなかった否定的な経済現象がある。

 現状に対する国民の不満は、体制転換を主導してきた「連帯」系政権に向けられた。ストが多発し、歴代の「連帯」系の政府は、その対応に苦心してきていた。

1993年秋の国政選挙では、旧体制の政権党の流れを汲む左翼民主連合、農民党が大勝し、1989年夏以降政権を担当してきた「連帯」系勢力は、大きく後退した。バブラック農民党党首を首班とする左翼民主連合との連立内閣が発足した。左翼連合政権においても、これまでの経済改革路線は、継承されてきており、市場経済化のプロセスは後戻りすることはなさそうである。

1994年の経済予測では、研究機関の多くは、4〜5%増の成長率を見込んでいる。ポーランド経済の回復傾向は、さらに堅調なものとなるだろう。

 


 

1993〜1994年のチェコ経済

 

1.   1993年のチェコ経済

2.   1994年のチェコ経済

 

はじめに

 チェコ・スロバキアという1918年以来続いたチェコとスロバキアの2つの主要民族で構成される国家は、1993年をもってチェコとスロバキアに分離した。チェコとしては一時的に、この国家分離による多少の経済的影響を受けているものの、それまでのスロバキアへの援助の重荷から解き放たれたことで、また、スロバキアのかかえるハンガリーとの係争問題からも解放され、国家分離のプラスの点も多い。国家分離後、いっそうその西欧との統合志向は強まるものとみられる。1993年のチェコ経済は最近続いてきたマイナス成長がゼロ成長まで回復し、成長への離陸も近づいている。工業生産は依然として減少傾向が続いているが、政府としてはぬるま湯的な旧ソ連・東欧市場の崩壊の影響ととらえ、これまで様々な形で守られてきた生産性の低い部門の生産が落ち込んでいるとして、短期的には不可避のものであるとの認識が強く、その対策としては生産の維持よりも総体的な雇用の確保に重点を置いている。企業の設立活動も活発である。このような私有部門の拡大と政府の雇用対策が、失業率の低さに反映している。急進的経済改革路線をとる現政府への支持もそれなりに高く、政治的安定もはかられている。

 チェコは1991年からいわゆるショック療法的な急進経済改革路線をとってきた。価格の自由化、通貨コルナの交換性の回復、私有化を着々と断行し、1993年の付加価値税型の税制への移行によって、ひとまず、その経済改革プログラム「経済改革シナリオ」の最終段階の改革措置がとられ、これまでは改革が順諸に進んでいるといってよいだろう。残された改革措置としては、厳格な破産法の適用と大規模私有化の第2段階の遂行があり、その改革路線の仕上段階の真価がこれから問われる。

 


 

1993〜1994年のスロバキア経済

 

1.   民族主義的政府の退陣と選挙の実施

2.   経済改革後のスロバキア経済

3.   1994年のスロバキアの経済政策

 

はじめに

 スロバキアは1989年の体制転換後、単一の国家チェコ・スロバキアとしてチェコ地域と同じ統一的経済政策がとられてきたが、改革が進むにつれて経済的パフォーマンスに差が生じてきた。1993年の国家分離の原因も、歴史的に形成された民族的感情がその根底にはあるものの、直接的にはスロバキア側への重い経済的ショックを和らげるために独自の経済政策を行いたいということがその発端となっている。国家分離がなされた後のスロバキアには、これまでのチェコからGDPの数%に相当するとみられる実質的援助もなくなった。また連邦政府あるいは連邦系企業で働いていたスロバキア人がそのままチェコに残リチェコ政府、チェコ企業に横滑りするケースが多く、スロバキアが国家として自立する場合の人材不足が生じている。独立国家として多難のスタートを切ったといえよう。

もっとも、旧ソ連・東欧全体をみれば、失業率やインフレ率はポーランド、ハンガリーとそれほど大きな差があるわけではなく、旧ソ連、ルーマニア、ブルガリアなどにくらべれば経済は安定している・

 スロバキアは独立以前から民族主義的政府が国家を牽引してきたが、その権威主義的、非民主的手法が内外から批判を浴びて、独立の立て役者のメチアル首相が1994年3月に退陣し、1994年秋に議会選挙が行われることとなった。今後、民族主義的傾向が弱まるのか、あるいはさらに再び民族主義的傾向が強まるのか予断を許さない。

 


 

1993〜1994年のハンガリー経済

 

1.   1993年のハンガリー経済

2.   1994年のハンガリー経済見通し

 

はじめに

 

 この5月8日に実施された総選挙の第1回投票において、前政権党の社会党が約33%を獲得し、再び第1党の地位を手にした。一方、現政権の連立3党(ハンガリー民主フォーラム、小地主党、キリスト教民主国民党)の得票率は合計しても27.6%にすぎなかった。2ラウンド制をとっているこの国の選挙制度のもとで、議席の大部分は5月29日の第2回投票によって決定されるが、いずれにせよ今回の投票結果は、経済政策を含む現政権の過去4年間の政治に、国民が「ノー」と意思表示したことを意味するだろう。その背景には現政権のもとで国民の生活水準が大幅に低下した現実があるが、それと並んで現政権の「民主的」性格について国民の間に不安が高まり、むしろ、1989〜1990年の体制転換期に政権の平和的移行を保障し、実態として民主主義休制の導入において主導的役割を果たした社会党(旧社会主義労働者党=共産党内の急進改革派)に支持が回帰した側面があることを忘れるべきでない。

 近く予想される新しい連立政権のもとで、経済政策については基本的に継承性が尊重されると考えられるが、農業政策に関しては、経済合理性を無視した大農場制敵視政策が放棄される可能性が高い。輸出拡大にとってマイナスであったフォリントの実質切り上げ(インフレ率よりも小幅な名目切り下げ)政策も、すでに1993年9月以降手直しされているが、今後いっそう大幅な切り下げが予想される。経済外交は変わらないだろう。今回第2党となった自由民主連合(得票率約20%)の内部にも、強力な左派的潮流が存在しており、この寛が連立に参加するかどうかは別として、新政権のもとで社会的弱者への配慮は強まるものとみられる。

 


 

1993〜1994年のルーマニア経済

 

1.   1993年のルーマニア経済

2.   1994年のルーマニア経済

 

はじめに

 ルーマニアでは、1989年暮れの民主革命以降、政治的混迷と経済の激しい落ち込みが続いてきたが、ここにきて若干様子が変わってきた。これはある意味で情勢の安定であるが、真を返せば変革の停滞ということでもある。

  1992年秋の総選挙の結果、イリエスク大統領と民主救国戦線(1993年7月に「社会民主主義党」に改名)による政権が再任された形となり、保守・民族主義勢力の閣外協力を仰ぐヴァカロユ少数派内閣が誕生した。当初、同内閣は本格政権とはみられていなかったが、改革派野党の度重なる不信任動議や左右両派からの揺さぶりを切り抜けて今日に至っている。ルーマニアのなかでは中道に位置する社会民主主義党が政権を握っていることで、保守・改革両陣営とも社会民主主義党がライバル側との本格的な提携に乗り出さないよう法外な要求を慎んだため、政治情勢が相対的に安定したことは見逃せない。その反面、政治的手詰りのなかで民営化をはじめとする構造改革はほとんど進展せず、“無為の危機“が進行してきた。ようやく、1993年12月に政府がIMFとスタンドバイ・クレジット協定を締結し、広範な改革措置を表明したことにより、この局面はひとまず打開された。

 こうしたなか、1993年から工業生産が回復し、農作物収穫が好天に恵まれて前年を上回ったこともあって、1993年の国内総生産は前年比1.0%増の成長を記録することができた。5年連続のマイナス成長(しかも過去2年は2桁のマイナス)にやっと終止符が打たれたわけで、ルーマニアにとっては久しぶりの明るい話題となった。だが、安定的な成長軌道に乗ったとみる根拠は乏しく、またインフレが激化するなかで国民の生活水準はいっそう低下している。改善されはじめた外交上のポジションを外資導入・輸出主導の成長に結び付けていけるかどうか、経済発展を通じて国民の福祉の向上をいかに図っていくかが今後の焦点となろう。

 以下、主としてルーマニア統計国家委員会の資料を利用して、1993年の同国の経済動向と、1994年の見通しを概観する。

 


 

1993〜1994年のブルガリア経済

 

1.   1993年のブルガリア経済動向

2.   1994年のブルガリア経済

 

はじめに

 旧東欧諸国のなかでは、もっとも旧コメコン市場に深く国内経済が組み込まれていたブルガリアでは、それだけいっそう、市場経済化への移行は歯難で、苦痛に満ちたものとなっている。

1993年のブルガリア経済は、私的経営が大部分を占めるサービス分野で活発な動きがみられたが、国内生産は農業が最悪であったのをはじめ。工業は輸出関連部門を除けば引き続きマイナスが続いており、一部には楽観的な見方があるにもかかわらず、低迷状況を完全に脱してはいない。生活水準は過去最低とみられ、失業問題も深刻化しつつある。

 このような経済状況を受けて、内政は安定せず、ベロフ首相の健康悪化も手伝って、野党のベロフ政権への風当たりが強まってきており、経済改革を進めるうえでの最大の障害のひとつとなりつつある。

1994年は、ブルガリアでは民営化の本格化が予定されているが、現状では失業問題のいっそうの深刻化は避けられそうにもない。

 旧コメコン市場の段階的回復を軸として。産業構造の適正化と国家セクターの市場経済化に合わせた再編成をどうスムーズに進めていくかが経済改革の焦点になりつつある。

 


 

1993〜1994年のモンゴル経済

 

1.   1993年のモンゴル経済

2.   1994年のモンゴル経済

 

はじめに

1992年1月13日、モンゴルは新憲法を採択し、70年間続いた社会主義体制を放棄し、国名も「モンゴル人民共和国」から「モンゴル国」に変更した。1992年6月28日、新憲法に基づき実施された国家大会議総選挙では、与党の人民革命党が76議席中71議席を獲得した。その1年後の1993年6月6日には、初の国民直接投票制による大統領選挙が行われ、その結果、野党勢力から推されたP.オチルバトが人民革命党推薦のL.トゥデブを破って当選した。

 経済改革については、市場経済化へ向けての制度的・法的基盤の創出が続けられている。1993年5月28日にトゥグリクの変動相場制が導入され、税法(1993年1月1日発効)、外国投資法(1993年7月1日発効)などの経済酪連法の整備も進められた。

 また、1993年には対外経済関係の再構築も進められた。まず、1993年1月にはオチルバト大統領がロシアを訪問し、1月20日に両国間で「モンゴル・ロシア友好協力条約」が締結された。旧条約の失効以来、うやむやになっていた両国の関係がこれにより明確化された。さらに、1993年には西側先進国との接近もはかられ、1993年11月24〜28日、ジャスライ首相が日本を訪問し、鉄道整備向けの円借款約33億円と経済復興向けの無償資金協力約20億円に関するプロトコールを結んだ。この他、同首相は米国へも訪問し、クリストファー国務長官を初めとする米国政府の高官、世界銀行およびIMFの幹部と会談した。

 モンゴルに対する国際支援体制も年々強化されている。1991年9月に「第1回モンゴル支援国会合」が開かれたのを皮切りに、1993年9月13〜14日には東京で「第3回モンゴル支援国会合」が開催され、日本を中心とする13カ国、5機関がモンゴルに対する国際支援の必要性とその継続を確認した。