ロシア東欧貿易調査月報

1994年7月号

 

T.1994年日ロ経済専門家会議代表団帰国報告

  ―金森団長、小川副団長報告―

U.ロシアにおける外資状況と外貨管理

V.サハ共和国(ヤクーチア)の経済地理

W.1993年のロシア連邦の外国貿易統計

X.第24回ロシア東欧貿易会定時総会報告(概要)

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旧ソ連・東欧貿易月間商況1994年6月分)

旧ソ連・東欧諸国関係日誌1994年6月分)

 

 


 

1994年日ロ経済専門家会議代表団帰国報告

―金森団長、小川副団長報告―

 

1. 明るさを増したロシア経済 : 金森久雄団長(日本経済研究センター会長、ロシア東欧経済研究所顧問)

2. ロシアの対外経済関係の現状 :小川和男副団長(当会常務理事、ロシア東欧経済研究所所長)

 

はじめに

 第17回日ロ経済専門家会議は、1994年5月31日〜6月29日の日程を終え帰国した。今回の代表団は中国東北3省ブリヤート共和国、イルクーツク州、モスクワ、欧州各地を訪問し、政府関係機関、各種研究所などにおいて幅広い意見交換を行った。

 近年、中国東北3省はロシア極東地方との経済関係を急速に深めており、中ロ国境貿易の実態と環日本海経済協力の今後を探る意味でも有意義な訪問となった。

 旧ソ連時代にロシア欧州部への資源供給および軍需生産基地としての役割を担っていた東シベリア地方のブリヤート共和国は、ソ連崩壊後、深刻な経済的打撃を受けている。数年前から熱望されていた専門家会議の訪問が今回実現し、モスクワなどの大都市と極東地方の間に位置する「真空地苗」の実態調査を行うことができた。

 さらに代表団はモスクワでのエコノミストや政府高級官僚との会議の後、ドイツおよび英国を訪問し、ロシア経済の現状と展望について率直な意見交換を行ってきた。以下、金森久雄団長(日本経済研究センター会長、ロシア東欧経済研究所顧問)および小川和男副団長(ロシア東欧経済研究所所長)の両報告を紹介する。

 


 

ロシアにおける外資状況と外貨管理

 

1. 外貨による融資、債務および外貨準備

2. 外国為替市場

3. 1994年の為替管理とその変化

4. ロシアにおける外国銀行と合弁銀行

 

はじめに

 旧ソ連では銀行業務と外貨管理は中央集権的な経済体制のもと国家が行っていたため、西側諸国とは制度も全く異なり未発達な分野であった。ソ連邦崩壊後ロシアが抜本的な経済改革を進めるなか、旧ソ連時代にはなかった制度や概念を取り入れ、新しい外貨管理および銀行制度を構築するプロセスか現在進行中であるか、対外経済活動など他の分野におけるのと同じようにその活動を規制する(時によってはお互いに矛盾する)大統領令や政府決定が次々と出され、不明確な部分が多い。

 当研究所では昨年に続き、ロシア科学アカデミー経済研究所にロシアの外貨状況と外貨管理に関する状況分析を依頼した。筆者のV.G.フェリゼンバクム主任研究員(経済学博士)はロシアが抱える対外任務の間凰融資状況外国為替市場の成り立ちと現況、外貨のロシア国外への流出問題、外為業者を行う公認銀行の活動などについて具対的に考察し分析を行っている。

 なお本稿でも触れられているが、ロシアの銀行制度に関する詳しい解説は本誌1993年4月号の「ロシアにおける銀行制度と外貨管理」のなかでされているので、参照いただきたい。

 


 

サハ共和国(ヤクーチア)の経済地理

 

1. 「脱ドル化」

2. 人工、民族構成、共和国行政

3. 産業概況

4. 対外経済交流

 

はじめに

 サハ共和国(ヤクーチア)はソ連時代にはヤクート自治共和風正式にはヤクートソビエト社会主義自治共和国(Yak・ASSR)の名で呼ばれていた・その誕生は、1922年4月27日で、ロシア革命の民族政策により、民族共和国創設が承認された時点にさかのぼる。当時はまだソ連邦(SSSR)結成より8カ月前であり、ロシア・ソビエト社会主義連邦共和国(RSFSR)に加盟し、その構成体となった。

 この時期の民族構成をみると、総人口が29万人で、そのうちヤクート人が24万人(82.3%)で、大部分を占めていた。一方、ロシア人は3万人(10.4%)しか住んでいなかった。しかしその後、ソ連邦の政治体制が整備され中央集権体制が地方にも浸透しはじめると、ロシア人を中心とする無制限で人為的な自治共和国への移住が始まった。とくに第二次大戦後、1950年代に中部ヤクーチアでダイヤモンド鉱床が発見され、資源開発が大規模に始まると、労働力としての移住に一段と拍車がかかった。

 最新の国勢調査によれば、1989年のヤクート自治共和国の総人口108万人のうちロシア人は55万人(50.3%)であるのに対して、ヤクート人は33万人、(33.4%)であり、少数派になってしまった。この数字を前掲の1926年国勢調査と比較すると、この63年間にロシア人は18倍に増大したのに対し、ヤクート人は1.4倍増加したにとどまった。このことからもうかがえるように、ロシア人の移住は自治共和国の民族構成ならびに性格を変えてしまうほど、大規模なものであった。

1985年、ソ連邦にペレストロイカ時代が到来した。とくに1990年6月のロシア共和国の国家主権宣言を皮切りにソ連邦構成共和国、自治共和国、民族自治区で一斉にそれぞれの自決権の主張が始まり、国名から「社会主義」の部分を削除する動きが拡大した。ヤクート自治共和国も1990年9月に国家主権宣言を採択し、国名もヤクート・サハ共和国に改称している。この「サハ」とはヤクート人の自称である。ソ連邦崩壊をうけて1992年3月31日、新しくロシア連邦が結成され、この時から「サハ共和国(ヤクーチア)」の名称で連邦に加盟し、ロシア連邦内での主権国家の道を歩むことを自ら選んだ。

 経済面では国家主権のもとで地下資源法を定め、国内安源がサハ共和国とサハ国民に帰属することを明確にしたが、のちにロシア大統領令によりこれは追認されている(1991年12月11日277号)。

 これは具体的には、この国最大の特産であるダイヤモンドと金の所有権問題である。この時点からモスクワのダイヤモンド、金取扱機関は、これまでタダで採掘してきた資源の利用料をサハ共和国に納めるようになり、またダイヤモンド、金の一定量の処分権をサハ共和国に認めるようになった。これは共和国創設以来の画期的出来事とされている。サハ共和国指導者は次のように言っている。「われわれは、今ではロシアの予算から1コペイカの補助も受けていない。それどころか自分達の資金でロシアの予算を定期的に潤している」(28 p.69)と。しかし共和国経済はロシア連邦同様に非常に苦しい。

 極東には歴史的にサハ共和国に似たチェクチ、コリャーク、ユダヤの3つの民族自治州、自治管区がある。その総面珠は「サハ」を含めて極東全地域の67%(418万q2)を占め、人口は同様に18.6%(147万人)を占めているが、人口ではロシア人の方が多い。また、ここではラディカルな民族間題の動きはみられない。

 サハ共和国は以前、東レベリア経済地域に属していたが、1963年の地域区画変更により極東経済地域に移管された。主要産業は資源開発を中心とした工業と農畜産である。

 日本との関係は、1970年代に南ヤクート原料炭開発と、ヤクーチア天然ガス探鉱の2プロジェクトが日ソ経済協力案件として実施されたが、この時開発されたネリユングリ炭は現在も継続して日本に輸出され、共和国最大の外貨収入商品となっている。

 本稿執筆者は島津朝美氏である。

 


 

1993年のロシア連邦の外国貿易統計

 

はじめに

 当会モスクワ事務所でこの度、ロシア連邦対外経済関係省付属景気研究所より外国貿易統計集「1993年のロシア連邦の対外経済関係Jを入手したので、ここにその一部を紹介する。本統計は、当月報1993年12月号に掲載した「1992年のロシア連邦の外国貿易統計」の1993年度版であり、ロシア統計国家委月会が発表したデータをもとに作成されたものである。

 本稿で紹介した統計は、以下のとおりである。

 (第1表)1993年のロシアの国別外国貿易高

 (第2表)1993年のロシアの輸出入構造

 (第3表)1993年のロシアの主要商品輸出高

 (弟4表)1993年のロシアの主要商品輸入高

 (券5表)1993年のロシアの主要商品の国別輸出高

 (第6表)1993年のロシアの主要商品の国別輸入高

 (第7表)1993年のロシアの主要貿易相手国との商品別輸出入高

 なお、第1表および第7表では、各地域内の国の順序はロシア語のアルファベット順によるものである。また、第5表、第6表の主要商品の国別輸出入高の国の順序は、数量が多い順であり、必ずしも金額の多い順には並んでいない。さらに、各商品項目の貿易相手国に「日本」が出てきた場合は、その数量にかかわらず、表中に日本の項目を入れた。

 


 

24回ロシア東欧貿易会定時総会報告(概要)

 

1.1993年度事業の概要報告

2.1994年度事業計画

 

はじめに

 ロシア東欧貿易会は1994年5月26日、第24回定時総会を開催した。ここではその際報告された平成5年度事業内容と平成6年度事業計画を細介する。

1993年の日ロ貿易の通関実績は、輸出15億79万ドル、輸入27億6,923万ドル、合計42億7,002万ドルとなった。対前年比は、輸出139.4%、輸入115.2各、輸出入計122.7%であった。1992年には1970年代なかばの水準にまで落ち込んでいたが、輸出が回復したことでなんとか盛り返した形になった。しかしピーク時の61億ドル(1989年)にはまだまだ及ばない。日本の貿易総額に占める日ロ貿易のシェアは多少は改善されたが、依然として輸出は0.42%、輸入は1.15%にすぎない。

1993年の輸出が伸びた主な原因は、1989年からはじまった政府の対ソ(ロ)支援策がようやく実効をあげはじめたところにある。わが国の金融支援は、ロシア向けは総額で約46億3,000万ドル、このうち約11億ドルが実施済みとなっている。1993年の通関実績に反映したとみられるのは、主にロシアの天然ガス公社「ガスプロム」向けの鋼管と建設機械の輸出に7億ドルの貿易保険が適用されたことによるものである。

 対ロ輸出のなかでは、重化学工業品のシェアが拡大した。なかでも金属品は前年比345.4%となり、機械機器、化学品も伸びた。この結果、ロシア向け輸出の88.8%が重化学工業品となり、この比率は過去最高となった。軽工業品の輸出は不振で、繊維品は不調だった前年よりもさらに減少した。

 対ロ輸入品目のなかでは魚介類が前年に引き続いて増加し、前年比122.0%となった。石炭、白金は減少し、輸入品目の構成比では増大した魚介類、木材、アルミおよび同合金の3品目の計で60.7%と過半を占めた。1993年の対モンゴル貿易は対前年比57.7%と低迷した。うち日本の輸出は3,709万ドルから1,871万ドルに、輸入は4,296%万ドルから2,746万ドルへといずれも減少した。

1993年の対中東欧諸国(バルト3国を含む)貿易概況は、日本の輸出が6億6.874万ドル(対前年比13.3%減)、輸入が5億3,145万ドル(同15.5%減)で、往復では12億18万ドル(同14.3%減)であった。

 往復貿易額でみた相手国の順位は、1位ハンガリー(前年2位)、2位ポーランド(同1位)、3位チェコ、4位ルーマニア、5位ブルガリア、6位スロベニア、7位リトアニア、8位ラトビア、9位スロバキア10位マケドニア、11位エストニア、12位クロアチア、13位アルバニア、14位セルビアおよびモンテネグロ、15位ボスニア・ヘルツェゴビナであった。