ロシア東欧貿易調査月報

2002年6月号

 

◆中・東欧特集

T.2001年のポーランドの政治と経済

U.2001〜2002年のハンガリー経済

V.2001〜2002年のスロベニアの政治経済

W.2001〜2002年のクロアチアの政治経済

X.2001〜2002年のセルビア・モンテネグロの政治経済

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モスクワ直送情報

 インタビュー 山口広浩さん(丸紅海IS総代表兼モスクワ支店長)

 インタビュー 大内宏明さん(三菱重工業モスクワ事務所長)

データバンク

 ロシア100大輸出企業

CIS・中東欧ビジネストレンド(2002年4月分)

CIS・中東欧諸国関係日誌(2002年4月分)

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統計特集(U)日本の対中・東欧貿易統計

 1.ポーランド

 2.チェコ

 3.スロバキア

 4.ハンガリー

 


 

2001年のポーランドの政治と経済

当会東欧部長
渡辺博史

はじめに
1.政治概況
2.経済の現況

 

はじめに

 2001年9月に実施された総選挙で左翼民主連合(SLD)が第一党に返り咲いた。「連帯」系政党の惨敗であった。もともと「連帯」系政党の敗北は予想されていたとは言え、結果は政権党の「連帯選挙運動」(AWS)が1議席も獲得できないという衝撃的なものであった。

 思い起こせば、1980年夏ポーランドでの「連帯」誕生が欧州の社会主義体制崩壊の濫觴であった。ポーランドの体制転換劇の主役であり、政治経済の改革を主導した「連帯」の流れを汲む全ての政党が国政の公式舞台から消え去った。ポーランドの政治の一時代を画する出来事であった。

 10月19日国会の承認を受けて、ミレル左派連立内閣が発足した。新政権には経済体制移行の積年のひずみへの対応と併せてEU加盟実現に向けて制度改革の推進という課題が課せられことになった。

 


 

2001〜2002年のハンガリー経済

当会東欧部次長
岡野清志

はじめに
1.経済の概況
2.外資の進出状況
3.
EU加盟準備

 

 はじめに

 ここ数年、ハンガリー経済は4〜5%と高い経済成長率を達成してきている。1980年代および体制転換前後の停滞していた時期と比べると隔世の感がある。ハンガリーは中期的な成長軌道を順調に歩んでいるようである。

 本年の2002年4月、ハンガリーでは総選挙が挙行された。1989年の体制転換から4度目の総選挙である。過去3度の総選挙において、全て野党側が勝利をしてきた。今回も、政権党の青年民主連盟が破れ、社会党・自由民主連盟による連立政権が誕生した。首相には、メジェシ元蔵相が就任した。

 


 

2001〜2002年のスロベニアの政治経済

東海大学教養学部教授
阿部望

はじめに
1.マクロ経済の動向
2.構造改革と
EU加盟の準備状況

 

はじめに

 スロベニアは、1991年の旧ユーゴスラビア連邦からの独立以来、他の中東諸国と比べ、相対的には安定した政治状況におかれてきた。このような政治的安定の基礎となったのは、この間のほとんどの時期において政権与党の中核であったLDS(スロベニア自由民主主義)である。そしてその中心人物こそ、ヨージェ・ドルノブシェクであった。彼は1992年4月に初めてスロベニアの首相に選出され、その後、1993年と1997年にも再任された。2000年の選挙においては、LDSは敗北し、首相をアンドレイ・バユクに譲ったが、政治的混乱の後、2000年12月には再度スロベニア首相に返り咲いたのである。

 このような政治的安定は、一方では安定的なマクロ経済環境を提供し、一定の経済成長に貢献したが、他方では他の中東欧諸国と比べて、既得権益層の堅い防護壁を崩すに至らず、経済構造改革の面で、相対的には遅れを見せている。

 以上の結果、その構造改革の遅れにもかかわらず、スロベニアはEU加盟の面ではその第一陣に名を連ねることはほぼ確実と見られている。

 


 

2001〜2002年のクロアチアの政治経済

東海大学教養学部教授
阿部望

はじめに
1.マクロ経済の動向と現状
2.EU加盟への加速化

 

はじめに

 クロアチア共和国は、1991年に独立を宣言し、その後フラーニョ・ツジマン大統領の指導するHDZ(クロアチア民主共同体)がクロアチアの政治経済を支配してきた。だが1999年12月にツジマン大統領が死去し、翌2000年1月に実施された国政選挙において、それまで与党であったHDZが敗北し、SDP(社会民主党)とHSLS(クロアチア社会自由党)が他の4つの小党派とともに連立内閣を組閣し、与党を形成することとなった。その結果イヴィツア・ラチャンが首相に選出された。

 しかしながらこの内閣は決して一枚岩とはいえず、かなり不安定な連立基盤に依存していた。実際早くも2001年6月には、6党連立政府を構成する1政党(イストラ民主議会派)が連立を離脱したのである。また連立を形成する二大政党のうちのひとつであるHSLSは、いくつかの点で連立内の最大政党であるSDPと対立を繰り返すようになっている。その論点のうちのひとつは、オランダのハーグにある国際戦争犯罪法廷への協力問題である。クロアチア政府は、今後の国際経済協力を推進する上で、とりわけEUの支持獲得、さらにはEU加盟への道筋の確保が戦略的に重要な課題であると考えている。だが、HSLSは、かつては優越していたHDZ(クロアチア民主共同体)の支持者の支持を得るため、最近では右派寄りの指向を強めており、SDPとしばしば対立を繰り返している。

 このような連立政府内の基盤が脆弱なために、当初期待されていた連立政府の経済構造改革の実績はそれほど印象的な成果をあげているわけではない。この点では国民の間に失望感が広がっているといってよい。

 以下本論では、最初にクロアチアのマクロ経済の動向と現状を考察し、その後でEU加盟への準備状況を概観する。

 


 

2001〜2002年のセルビア・モンテネグロの政治経済

東海大学教養学部教授
阿部望

はじめに
1.ユーゴスラビアから「セルビア・モンテネグロ」へ
2.マクロ経済の動向と現状
3.
EU統合への道

 

はじめに

 ユーゴスラビア連邦(セルビア共和国(コソボを除く)、モンテネグロ共和国およびコソボ)は、2000年9月24日の大統領選挙でV・コシュトニッツァが新大統領に選出されて以降、国際社会に基本的には暖かく迎え入れられ始めた。しかしながらその後のプロセスは、好ましい国際政治環境の下でさえ、ユーゴスラビアにとってきわめて過酷なものであった。1990年代の10年間を通してのミロシェビッチ体制下での、国際的孤立化とNATOによる空爆による文字通りの経済疲弊は、この国の経済的潜勢力をほぼ無力にするものであった。それゆえコシュトニッツァ大統領の下のユーゴスラビアはまず何よりも経済再建を果たさなければならなかった。しかしそのことは、この国の政治体制の整備を行いながら遂行されなければならなかったのである。すなわち、ユーゴスラビアはセルビア共和国とモンテネグロ共和国から構成されているが、モンテネグロ共和国がユーゴスラビアからの独立を仄めかしていたからである。この問題に決着がつかない限り、ユーゴスラビア内での政治経済の再建・発展は展望し得ないことになる。

 そしてついに2002年3月に至り、ユーゴスラビア連邦共和国は解体し、国家連合「セルビア・モンテネグロ」が形成されることが合意されるに至ったのである。

 以下では、はじめに将来のユーゴスラビアの政治体制の方向を検討し、次いでマクロ経済の動向と現状を分析する。そして最後に、ユーゴスラビアの対外関係、とりわけEU加盟への展望について検証する。