ソ連東欧貿易調査月報

1990年5月号

 

T.市場経済移行を模索する東欧と難題

U.1989〜1990年の東ドイツ経済

V.1989〜1990年のポーランド経済

W.1989〜1990年のチェコスロバキア経済

X.1989〜1990年のハンガリー経済

Y.1989〜1990年のルーマニア経済

Z.1989〜1990年のブルガリア経済

[.1989〜1990年のユーゴスラビア経済

\.1989〜1990年のアルバニア経済

].1989〜1990年のモンゴル経済

XI. 1990年の1〜4月のソ連の経済実績

XII. 東欧諸国経済資料

◇◇◇

日ソ・東欧貿易月間商況1990年月分)

ソ連・東欧諸国関係日誌1990年月分)

対ソ・東欧諸国・モンゴル輸出入通関実績

1990年3月および1〜3月累計)

 

 


 

市場経済移行を模索する東欧と難題

 

1.政治的民主化と経済的難色

2.市場メカニズム体得には長年月が必要

3.東欧・ソ連経済関係の将来

4.西側の対東欧経済支援体制

 


 

1989〜1990年の東ドイツ経済

 

1.1989年の東ドイツの経済動向

2.1990年の経済動向

 

はじめに

 1989年は東ドイツを含む東欧諸国にとりまさしく激動の年となった。東ドイツの改革の契機となったのは昨年5月2日にハンガリーがオーストリア国境の鉄条網を撤去して東ドイツ国民がハンガリー経由で西ドイツへ大量に流出して言ったことに始まる。その後東ドイツ国内においては各都市で民主化・自由化を要求するデモが相次ぎ、さらに9月には反体制グループの新フォーラムが結成されるにいたり、改革を求める声がいっそう高まっていった。

 1971年に政権の座に就いたホーネッカー書記長は高齢かつ病身であったため、こうした新事態に対処できず、10月18日突然辞任した。後任の書記長にはホーネッカー直系のクレンツ政治局員が就任したが、国民は満足せず、11月4日には首都ベルリンで100万人のデモが行われ、11月9日には東西分裂の象徴ともいえるベルリンの壁が一夜にして崩壊した。ベルリンの壁崩壊の衝撃はチェコスロバキア、ブルガリア、ルーマニアに飛び火していった。

 壁崩壊後の東ドイツ情勢は急速に展開した。11月17日にはモドロウ氏を首相とする連立内閣が成立、12月6日クレンツ書記長の辞任、同16日社会主義統一党は一党独裁を放棄し、党名も社会主義統一・民主社会党(後に民主社会党―PDS)へ変更、12月19日にはコール・西ドイツ首相とモドロウ・東ドイツ首相の会談が行われた。

本年に入ってからは3月18日に建国後初の自由選挙が実施され、その結果、キリスト教民主同盟を中心とするドイツ連合が勝利し、デメジエール氏を首相とする大連立内閣が成立した。ドイツ連合の勝利はドイツ統一を早急に求める東ドイツ国民の態度表明であった。

 1989年の東ドイツ経済は、大量の人口の西ドイツへの流出による労働力不足が大きく響き、1980年代で最悪の状態であった。新政権は国内経済再建を西ドイツの経済力に全面的に依存することによって達成しようとしている。しかし当面はインフレ、失業など経済混乱が続くと予想され、東ドイツ経済の立ち直りには長期を要すると思われる。

 7月1日には西ドイツとの通貨・社会・経済同盟の発足による西ドイツ経済との一元化、さらに第二次世界大戦戦勝4カ国(米英仏ソ)と東西ドイツによる6カ国協議、今秋予定の全欧安保協力会議(CSCE)へと続く一連の会議の中で、東西ドイツの政治的統合が協議される。

 


 

1989〜1990年のポーランド経済

 

1.ポーランド経済の現状

2.ポーランド経済の今後

 

はじめに

 1989年6月4日、ポーランドで戦後初めての自由選挙が実施された。結果は、大方の予想をはるかに上回る「連帯」側の圧勝であった。戦後ポーランドの政治の中枢を担ってきた統一労働者党(共産党)が国民の支持を失っていえることが公然としめされたわけである。

 7月19日に選挙後初の国会でヤルゼルスキ党第一書記が新設の大統領に選出された。8月2日、ヤルゼルスキ大統領は、キシュチャック内相を首相に指名した。同首相は、「連帯」に政権への参加を求めるが、これに対してワレサ「連帯」議長は統一労働者党を除く連立政権構想を打ち上げた。8月14日、キシュチャック首相は組閣難航を理由に辞意を表明、17日、ヤルゼルスキ大統領は「連帯」主導の組閣を承諾し、19日ワレサ議長側近のマゾビエツキ氏を首相に指名した。

 1980年夏に発生したグダニスクでの食肉値上げに反対するストライキ(これを機に自主管理労組「連帯」が誕生)から9年を経て、「連帯」は国民運動により既成の一党支配体制を覆し政権獲得にまで到達したわけである。1990年後半の東欧での民主化のうねりを呼び起こした一大変革であった。組閣は難航したが、9月12日、「連帯」、統一労働者党、統一農民党、民主党、無党派からなる大連立内閣が誕生した。

 マゾビエツキ新政権は発足するや、旧政権によって残された「負の遺産」の排除に取り組んだ。財務大臣バルツェロヴィチを中心に抜本的な経済改革を目指す「経済プログラム」が作成され、これに基づいて1990年1月より先進資本主義型の市場経済の導入を狙った措置が実行されている。

 ここにきて改革が功を奏し、一次年率2,000%という超インフレは収束に向かい、国内通貨ズオティの為替レートも安定してきた。しかし国内生産は工業を中心に不振を続け、輸出も思うように伸びていない。このため、対外債務は減るどころか、増大傾向にあり、状況によっては国内の経済改革の足を引っ張ることになりかねない。その意味でも西側の経済援助は不可欠であろう。

 


 

1989〜1990年のチェコスロバキア経済

 

1.1989年のチェコスロバキアの経済実績

2.1990年以後のチェコスロバキアの経済政策

 

はじめに

 チェコスロバキアは、他の東欧諸国同様、1989年に革命的変革を経験し、これまで40年以上続いてきた共産主義中心の政府が打倒され、戦後初めての共産党閣内少数派のチェルファ政権が誕生した。さらに12月28〜29日の連邦議会では、同議会の議長に1968年の「プラハの春」の指導者ドゥプチェクを、大統領には反体制活動家であり劇作家であるハベルを選出した。このハベル―ドゥプチェク―チェルファ体制は、暫定的なものであり、1990年6月8日に予定されている選挙後に、最終的なチェコスロバキア政府の新体制が固まるものと思われる。なお、チェコスロバキアは、国名をチェコスロバキア社会主義共和国(”Czechoslovak Socialist Republic,略称(CSSR))からチェコスロバキア連邦共和国(Czech and Slovak Federal Republic,略称(CSFR))に1990年4月に変更された。この国名の問題は、同国の二台民族のチェコ人とスロバキア人の民族感情が複雑に入り組んでおり、選挙後蒸し返される可能性がある。ここでは、同国をチェコスロバキアと従来どおりの通称をしようする。

 チェコスロバキアの1989年の経済成長は、1.7%増のかなり低い伸び率であった。チェコスロバキアは、過去の遺産を食い潰しながら、そこそこの経済成長を保ってきたが、成長の観点からは、完全な行き詰まりを見せたといえる。しかしながら、他の東欧諸国に比べれば、経済が危機的状況にあるわけでなく、経済は安定しており、対外債務は、ソ連・東欧諸国の中ではもっとも良好なポジションにある。1989年の経済状況も貿易など、それほど悪くない部門もある。

 しかし、相対的に安定した経済状況とはいえ、経済改革は待ったなしの状況にある。チェコスロバキア経済の抱える問題は、老朽化し生産性の低い機械・設備で工業製品を作り続けている体質をいかにして改善するかという点である。これまではコメコン体制の枠内のもので品質の悪い製品でもソ連、東ドイツ、ポーランドを初めとする諸国が引き取ってくれたが、コメコンがハードカレンシィ決済に移ることが決まり、チェコスロバキアは、貿易市場を失う可能性が出てきた。同時に、製品輸出の見返りに輸入していた原・燃料の供給が削減される可能性も高まった。したがって、これは古くて新しい問題であるが、緊急な解決を要する問題である。

 


 

1989〜1990年のハンガリー経済

 

1.政治体制の根本的転換

2.1989年のハンガリー経済

3.1990年のハンガリー経済

 

はじめに

 労働人口が少なく鉱物資源にも乏しいハンガリーにとって、経済を発展させるうえで、労働生産性の向上と省エネ化は常に最重要な課題であった。又国内市場が狭小なために対外経済関係の重要性が高く、経済の開放化が進展した。こうした状況はハンガリーにおける経済改革を促し、1968年以来、社会主義労働者党の一党支配体制の枠組みの中でも、行政・指令型経済運営から市場導入型経済運営への転換を目指す改革が試行錯誤を繰り返しながら実行されてきた。その結果、東欧の中では珍しく行列がないなど安定した消費生活を国民に保障することが可能となり、また1979年の第二次オイルショックまでは東欧諸国の中でも相対的に高い経済成長を続けてきたのである。しかし、このような比較的恵まれた経済状況も西側からの多額の借入金に負うところが大きく、西側諸国が経済不況に陥ると同時に輸出が伸び悩み、国際収支の悪化、対外債務の累増に見舞われ、国内の産業構造の後進性や農業不振も加わって、1980年台前半から低成長が続いている。

 ハンガリーは経済の低迷からの脱却を西側先進諸国との関係強化、およびこれと一体化した市場経済システムの整備によって図ろうとしたが、この方向は、1990年3月の自由選挙によって成立した「民主フォーラム」を主軸とする連立政権にも引き継がれることになろう。しかし現在ハンガリーは、対外債務の累増、財政赤字の増大、インフレーションの昂進、失業の顕著化などに見舞われており、前途は多難である。

 


 

1989〜1990年のルーマニア経済

 

1.行き詰ったチャウシェスク体制 ―1989年までのルーマニア経済

2.劇的政変と暫定政権

3.1990年のルーマニア経済―経済再建の方向と課題

 

はじめに

 1989年秋、東欧諸国が次々と民主化を達成する中、ルーマニアは一人独裁の孤塁を守っていた。11月に開催された共産党大会においても、ルーマニア社会主義の成果が誇示され、チャウシェスク体制は揺るがないかに見えた。しかしすでにこの時点で、内外経済環境の悪化と強権政治によってもたらされたルーマニアの体制矛盾は限界に達し、またチャウシェスク独裁を可能にしてきた諸条件も過去のものとなっていた。12月16日、西部の都市ティミショアラでハンガリー系反体制牧師の強行連行に講義するデモが発生し、体制側の冷酷な弾圧を糾弾する動きは20日ごろまでに首都ブカレストをはじめとする全土に飛び火、ルーマニアは壮絶な内戦の渦中に置かれた。強力な治安維持軍を擁する体制側に対し、市民の側に立った国軍が最終的に戦闘に勝利し、この革命のさなか急遽結成された暫定政権「他救国戦線評議会」は25日、チャウシェスク大統領夫妻を死刑に処して、チャウシェスク体制は一気に打倒された。

 しかしながら、幾多の命の犠牲の上に自由を獲得したルーマニアであるが、新生国家の前途は平坦ではない。チャウシェスク体制の多面にわたる負の遺産は甚大であり、経済の荒廃もさることながら、社会や政治文化にもその弊害を残しているからである。1990年5月20日の選挙で、国民は暫定政権の首班を務めてきたイオン・イリエスク氏を圧倒的支持により大統領に選出したが、同氏を中心とする救国戦線評議会の手腕が真に試されるのは今後の運営においてであろう。

 本稿は本来であれば1989年度のルーマニアの経済実績を分析し、また1990年度の経済計画を検討すべきものである。だが、現在に至るまで1989年度実績は発表されておらず、チャウシェスク体制晩年の情報制限と相俟って、昨年のルーマニア経済をデータに即し実証的に検討することは不可能である。今年度の計画にしても、政変直前の1989年12月に採択されてはいるが、すでに失効していると見られる。

 そこで本稿では対象を1989〜1990年に限定せずにやや視点を広げ、以下の考察を行う。第1に昨年12月の劇的な政変の背景となった近年のルーマニアの経済体制の矛盾点を、対外経済の問題を足がかりに整理する。第2に、1989年暮れの暫定政権発足から1990年5月の選挙までの政治動向を検討し、新体制の行方を占う。そして第3に、5月までの暫定政権の経済運営を概観し、経済再建・経済改革の方向性を探るとともに、現段階でのルーマニア経済の実情を見る。

 いずれにせよ、チャウシェスク体制後期のルーマニア経済の実態が 明らかになるのにも、ルーマニア経済がいかにして再生を図っていくのかが明確になるのにも、今しばらくの時間が必要であろう。

 


 

1989〜1990年のブルガリア経済

 

1.1989年のブルガリアの経済実績

2.1990年のブルガリアの経済計画

 

はじめに

 1989年、東欧諸国は民主化の波に大きく揺れた。ブルガリアも例外ではなく、同年11月、柔軟な内外政策を展開しつつ、35年もの長期にわたって同国の最高指導者であり続けたトドル・ジフコフ国家評議会議長が共産党書記長の職を辞任し、ムラデノフ外相が新書記長に選出された。その後、民主化の圧力が高まる中、ブルガリア共産党は人事刷新と機構改革を進め、党名をブルガリア社会党に変更することを決めたが、ブルガリアの政治情勢は今なお不安定なままである。当面のところは、ムラデノフ大統領、リロフ社会党最高評議会議長(党首)、ルカノフ首相の新トロイカで政局を運営していく体制を整えたが、今後の政局安定は、悪化する国内経済情勢、増大する累積債務、30万人におよぶ貴重な労働力の大量出国をもたらしたトルコ系住民に対する強制同化政策の扱いなど、山積する難問に対してどれだけ具体的な改革案を出すことが出来るかにかかっていると言えよう。

 一方、経済政策の面では、ブルガリアは、従来の計画経済に市場原理を導入する方法を模索し、1980年代のはじめから経済改革を進めてきた。しかし、ブルガリアでは石油・石炭や食料品など生活必需品の価格をこれまで低く抑えてきたため、価格統制を急にはずせばインフレが起きる恐れが大きい。また国際的な製品競争力も弱いため、貿易の自由化を進めれば貿易赤字が深刻になるという懸念もある。また、経済改革の流れのなかで推進された企業経営の自主権の拡大や貿易特区制度の導入も十分な効果を挙げるには至っていないのが現状である。

 このほど、ブルガリアの中央統計局によって1989年の国民経済の実績が発表されたが、それによると1989年のブルガリア経済は、1980年代初頭に始まった経済成長の鈍化傾向をもっとも強く示し、社会主義政権の成立後初めてマイナス成長を記録した。この経済不振は、単は1989年の経済運営の失敗ではなく、長期間にわたり経済政策、人事・組織政策、法制度が頻繁に変更され、さらに政治・社会政策上の重大な誤りが累積した結果にほかならない。

 ブルガリア経済が深刻な事態に直面し、経済政策の大転換が求められているといえよう。

 


 

1989〜1990年のユーゴスラビア経済

 

1.1989年のユーゴスラビアの経済動向

2.1990年のユーゴスラビア経済の展望

 

はじめに

 1989年はユーゴスラビアにとっても戦後体制を揺るがす波乱の年であった。政治的にはコソボ自治州における民族紛争が一層激化するとともにスロベニア共和国の連邦からの分離傾向が強まった。このなかで、戦後単独で政権を担ってきた共産主義者同盟の一党支配が崩れ、又同盟の分裂が決定的となった。経済面では、1989年初に発足したマルコビッチ首相率いる連邦政府は、市場経済メカニズムの確立へむけた経済改革を推進するとともに、輸出・輸入とも大幅に伸び、対外債務も減少した。そして1990年に入って、4桁のデノミをはじめとする包括的なインフレ抑制策の実施によって、1989年末には年率2,600%にも上ったインフレが劇的に鎮静化した。

 ユーゴスラビアにとっては宿命的ともいえる民族間の対立は、次の2つの方向で先鋭化した。ひとつは、セルビア共和国内のコソボ自治州での少数派セルビア系住民と80%近い人口を占めるアルバニア系住民との対立である。最近2〜3年は共和国的規模では住民の圧倒的多数をなすセルビア人が攻勢に出ており、1988年には共和国憲法を修正して自治州の権限を縮小させた。これがアルバニア系住民の新たな反発を呼んだ。1989年2月〜3月には、鉛・亜鉛鉱山労働者のストライキを契機にコソボ全州でゼネスト状態となった。しかし政府は軍を動かし鎮圧した。1990年に入ると、1月の共産主義者同盟の大会が中断した直後から、コソボの独立などを要求するアルバニア人の示威運動が強まると、連邦政府は非常事態を宣言し軍と警察を投入した。これによって、アルバニア人に多数の死傷者を出す結果となった。

 もうひとつは、経済的にもっとも豊かなスロベニアが1989年9月に連邦からの離脱権を共和国憲法に明文化したことである。人口の8%に過ぎないが、雇用の16%、国民所得の20%、輸出の25%を占めるスロベニアが自立傾向を強めることは、ユーゴスラビア経済全体にとっても深刻な問題を引き起こしかねない。セルビアはこれに対して、ユーゴスラビアの連邦制を解体するものと受け止めて反発を強め、スロベニア製品のボイコット運動などを展開した。スロベニア側でも共和国国境を閉鎖するなどし、漁共和国の緊張が高まった。

 また、これまで唯一の政権党であったユーゴスラビア共産主義者同盟(SKJ)もその一党制の放棄を迫られ、同時に協和告別の独立した党へ分裂する様相を深めた。すでに各地で多くの政党が結成されており、1990年1月時点で60を超えている。そして、同月に開かれた同盟の臨時大会では、憲法における同盟の指導的役割の規定を除去し、複数政党制を導入して自由選挙を実施することが合意された。だが、SKJを各共和国等の連合体にすることを主張したスロベニア代表団が、これが受け入れられないことを理由に総退場して大会は中断し、70年の歴史を有するSKJの分裂・崩壊は決定的となった。

 複数政党による自由選挙の実施は共和国ごとにまちまちである。つまり、セルビアではかなりの製薬をもった複数政党選挙が既に前年11月に実施されて、共産主義者同盟が信任をえた。スロベニアでは1990年4月8日に完全自由選挙が行われた。この結果、名称を変え新政党として出発した共産主義者同盟は敗北し、中道連合が勝利した。また、クロアチアでも4月22日に自由選挙が実施され、民族主義的色彩の濃い「クロアチア民主同盟」が、これもまた共産主義同盟を改称した民主変革党を抑えて勝利した。更に今後、マケドニア、ボスニア=ヘルツェゴビナでも選挙が予定されている。

 こうした事態の経過が示すものは、今日ユーゴスラビアでは第2次世界大戦後に確立された共産主義者同盟の一党支配に基づく連邦国家の枠組自体が、崩壊ないしは再編の危機に立たされていることであろう。このなかで、経済運営においては連邦政府の威信と権限が以前と比較して格段に増大しており、その点で連邦政府の求心力は強い。だが他方では、政治的にはSKJの一党支配の崩壊により連邦体制の分裂と遠心化傾向が強まる、という矛盾が本年も強まるであろう。

 


 

1989〜1990年のアルバニア経済

 

1.1989年の経済動向

2.1990年の経済計画

 

はじめに

 1989年、大きな変革のうねりが東欧全体に波及するなか、唯一社会主義路線の堅持を表明し、他の東欧諸国の改革を批判してきたアルバニアであるが、1990年に入り、経済改革の導入を決定するとともに民主化・開放化政策を打ち出すようになった。

 その背景には、経済改革に取り組まざるを得ない国内経済の停滞振りと、昨今の国際情勢から、従来の孤立化路線を続けていては経済発展の活路が耳出せないという認識がある。

 1990年1月の第9回党中央委員会総会では、党権力の独占維持が強調される一方で、人民議会選挙への一部複数立候補制の導入の可能性が示され、党内民主化の必要性が認められている。続く4月の第10回同委員会総会では、一連の経済改革案が承認されるとともに、米ソ両国と外交関係を回復する用意があることが示唆され、またEC市場への参入についても強い関心が表明された。

 1990年5月の人民会議では、チャルチャニ首相が、全欧安保協力会議(CSCE)への参加希望を表明した。アルバニアは、米ソをはじめ全35カ国が構成するCSCEに加盟していない欧州唯一の国であり、これに参加することは国際社会復帰への第一歩を意味する。さらに、同人民議会は、国民の出国規制措置の大幅な緩和、死刑制度の緩和、布教活動の自由化を承認した。これらの決定は、CSCE加盟に向け、人権重視の姿勢を国際的にアピールするものであり、アルバニアの鎖国政策からの脱却と民主化の推進が明確になった。

 こうした開放化路線を欧米諸国は歓迎しており、米国との間では外交関係正常化のための事務レベルの協議が既に開始されている。5月にはデクエヤル国連事務総長のティラナ訪問も実現した。

 しかし、開放化政策をとりながらも、アルバニア指導部は社会主義路線と一党独裁体制を放棄する考えはなく、あくまで現在の体制の枠内で改革を推進する意向である。

 


 

1989〜1990年のモンゴル経済

 

1.1989年のモンゴル経済実績

2.1990年のモンゴルの経済・社会課題

 

はじめに

 1989〜1990年、モンゴルでは東欧の改革の刺激を受け、民主化の大きな動きが起きた。1989年末には知識人、学生を中心に民主同盟が誕生し、1990年2月はじめには人民革命党(共産党)が党の指導的役割を削除した党綱領案を採択、2月下旬には民主同盟を母体とする「モンゴル民主党」の結成大会が当局公認のもとで開催されるなど、民主化が加速化された。反政府勢力はさらに徹底した民主化を要求し、バトムンフ書記長は3月12日の中央委員会総会で大幅に譲歩し、政治局員は総辞職した。新しい書記長には改革派と目されている国際共産主義理論誌『平和と社会主義の諸問題』党代表のオチルバト氏が選ばれた。政治改革とともに経済改革も行われ、市場経済の導入、外資法、免税、合弁などが認められ、今後の改革が期待される。

 以下は、ソ連『海外経済情報』紙、『ノーボスチ・モンゴル』紙、モンゴル商工会議所の報告に基づき1989年の経済を概観したものであるが、政治的・経済的混乱のため、1989年の実績がわずかに発表されただけであり、1990年の経済計画は発表されていない。