ソ連東欧貿易調査月報

1991年5月号

 

T.ドイツ統一の衝撃と難題

U.1990〜1991年のポーランド経済

V.1990〜1991年のチェコスロバキア経済

W.1990〜1991年のハンガリー経済

X.1990〜1991年のルーマニア経済

Y.1990〜1991年のブルガリア経済

Z.1990〜1991年のユーゴスラビア経済

[.1990〜1991年のアルバニア経済

\.1990〜1991年のモンゴル経済

◇◇◇

日ソ・東欧貿易月間商況1991年月分)

ソ連・東欧諸国関係日誌1991年月分)

対ソ連・東欧諸国・モンゴル輸出入通関実績

1991年月および1 〜月累計)

 


 

ドイツ統一の衝撃と難題

 

1.ドイツ統一 ―予想を超えた早期実現―

2.経済巨人誕生の衝撃

3.大マルク圏形成には障害

4.東西格差の早期解消は至難

5.極度の経済不振と悲観的見通し

 

はじめに

 1989年以降の東欧の変革とソ連離れは、国際政治の歴史的観点から見れば、第2次世界大戦後における米ソ両大国によるヨーロッパ分断体制、つまり、いわゆる「ヤルタ体制」の終焉を意味している。ヨーロッパは復権し、東西ヨーロッパは広くソ連までも取り込んで融和の時代を迎えたといえる。

 東西対立は遠のき、NATO(北大西洋条約機構)もWTO(ワルシャワ条約機構)もその存在意義が薄れ、再編成を迫られている。WTOは正式に解体した(1991年2月)。ヨーロッパの新しい秩序の形成が模索され始めているわけであるが、ゴルバチョフ・ソ連大統領が提唱する大欧州主義思想、つまり「ヨーロッパ共通の家」構想には、東西分断に苦しんできたヨーロッパの人々にとってほとんど抗しがたい魅力がある。大欧州主義思想によって、1992年に予定されるEC統合という西ヨーロッパの大事業も影が幾分薄くなった感がある。

 東欧の変革は実に広い範囲にわたって、きわめて大きく、また深い国際的影響を及ぼしているわけであるが、ドイツ統一というこれまた第2次世界大戦後のヨーロッパの秩序を根底から覆すモニュメンタルな出来事が極めて短い期間に実現した。東ドイツ(ドイツ民主共和国)は1989年10月6日にその建国40周年を祝ったばかりであったのに、1年を経ずしてその歴史を閉じたのである。

 東西ドイツ統一に向けての急激なテンポの動きは、世界中の誰も予想できなかったものである。統一を成就した当の東西ドイツ人たち自身が、このように急速なピッチを予期していたわけではなく、夢が覚めてきて戸惑いがみられ、今後さまざまな難題が顕在化してくるとみられる。現実にも、旧東ドイツ地域における企業倒産の多発と失業の急増、統一前の予想をはるかに上回る資金需要、東欧諸国との諸契約ならびに商業上の義務の混乱など、困難な問題が早くも発生している。本稿執筆者はソ連東欧経済研究所副所長小川和男である。

 


 

1990〜1991年のポーランド経済

 

1.ポーランド経済の現状

2.1991年のポーランド経済

 

 1989年秋の「連帯」政権の誕生は、第2次世界大戦以降40年あまりにわたるポーランド統一労働者党(共産党)の権力独占に終止符を打ち、他の東欧諸国における改革の先鞭をつけることになった。ポーランド統一労働者党は1990年1月の党大会で党を解散、新たに民主的左翼政党「ポーランド共和国社会民主主義」として再出発することになった。しかし、5月におこなわれた自由選挙による地方選においても、都市部を中心に「連帯」系候補が圧勝し、旧統一労働者党の凋落ぶりがいっそう明白になった。一方、政権を担う立場に立った「連帯」も不協和音が目立ち始め、7月には反ワレサ派の「市民運動・民主行動」が新党を設立、分裂が決定的となった。

 9月、ヤルゼルスキ大統領が辞任を表明すると、ポーランド下院は「1990年中に直接選挙による大統領選挙を実施する」決議を圧倒的多数で可決した。

 大統領選は11月末にワレサ、マゾビエツキ、ティミンスキー(移民事業家)の各氏で争われたが、ワレサ、ティミンスキーの決選投票(12月初め)の結果、ワレサ氏が大統領に就任した。新首相には若手事業家ビエレツキ氏が指名された。

 1990年のポーランド経済状況は、同年から実施段階に入ったバルツェロビッチ蔵相の手による「経済プログラム」の成果を反映したものとなっている。一時は年率700%にも達したハイパーインフレは急速に抑制され、物価も比較的安定し、慢性的な物不足は解消され、ポーランド通過の価値が高まってきている。しかし、工業生産は、需要抑制策と構造転換政策、また対コメコン貿易の激減、湾岸戦争による石油入手困難などによって深刻なリセッションを経験した。工業における所有の転換も思うように進まず、所有転換が極めて困難な課題であることを示した。貿易は政策当局の糸に反して大幅な黒字を計上した。

 バルツェロビッチ蔵相は、ワレサ=ビエレツキ体制下でも引き続き蔵相として経済政策を担当することになり、1991年は経済プログラムの総仕上げの年となる。とくに、所有転換が重視され、新政権は深刻なリセッションを市場経済化をさらに進めることによって乗り切ろうとする意図をより鮮明にしている。1991年は“ショック療法”と呼ばれるポーランド型経済改革の成否が問われる年となろう。

 


 

1990〜1991年のチェコスロバキア経済

 

1.1990年のチェコスロバキアの経済実績

2.1991年のチェコスロバキア経済

 

はじめに

 1990年のチェコスロバキアでは44年ぶりの自由選挙による総選挙が実施され、ハベル大統領=チャルファ首相体制が継続することとなった。しかしこの選挙は、過去の共産党支配を否定する意味の強いものであり、政局が真に安定するには、経済改革の本格化する1991年以降を乗り越える必要がある。

 新政権はクラウス財務相の主導する緊縮型の市場経済移行を進めつつある。そのシナリオの柱は価格自由化、コルナの国内交換性付与、国有資産の私有化、EC型への税制改革である。

 この動きの中で、1990年末から1991年にかけて、チェコスロバキア景気後退、インフレ、失業増大、対外収支の悪化といった厳しい経済状況に直面することとなった。

 当面、国民は経済移行期の苦難に耐えなければならないが、1991年に入り、インフレが収束に向かっていることは明るい要素といえよう。また、重工業部門の不振に比べ、軽・食品工業の生産の落ち込みが小幅であることは国民生活の不安を少なくするのに役立っている。

 しかし1991年なかばには、さらにもう一段の価格自由化が実施されるところから、インフレ高進のおそれもある。また当面、対外収支改善の有効な手段がないことから、チェコスロバキアは産業の近代化に外資導入に大きな期待を寄せている。

 変革の中で、貿易に占める西側のシェア拡大が目立つが、最大の取引相手であるソ連との取引については、チェコスロバキア経済の円滑な運営のため、当面極めて重要な地位を保つとみられる。

 


 

1990〜1991年のハンガリー経済

 

1.1990年のハンガリー政治動向

2.1990年のハンガリー経済

3.1991年のハンガリー経済

 

はじめに

 1990年は、ハンガリー経済にとって、ドラスティックな構造転換が開始された年となった。内需・外需が実質ベースで大幅に縮小する中で、国内生産が経済各分野で急激に落ち込む一方、小規模経営セクター(従業員50名未満)の生産のダイナミックな拡大、合弁企業数(直接投資)の急速な膨張、貿易取引圏構造のめざましい転換(対東側から対西側へ)とハードカレンシィ建て対外収支関係の顕著な改善が同時に進行した。

 以上の構造的諸変化が、ハンガリー経済を取り巻く国内的・国際的な政治・経済環境の激変(体制転換)によるものであることはいうまでもない。1990年春の総選挙による非共産党系政府の成立、そのもとでの市場経済化政策の加速化、これを受けた西側の支援強化、従来の東側経済同盟(コメコン)の実質的崩壊(1991年に正式解散)が、その背景にあった。

 こうした背景の下で、1991年4月に新しい政府プログラム(いわゆる「クパ・プログラム」)が発表された。このプログラムは、1991〜1994年の経済政策の基本方針を明らかにしている。だが、このプログラムでも経済全体としての拡大均衡への移行は、1992年以降のことであり、1991年は縮小均衡型の転換プロセスが続くものとみられる。

 


 

1990〜1991年のルーマニア経済

 

1.自由選挙後のルーマニア情勢

2.1990年のルーマニア経済

3.1991年のルーマニア経済

 

はじめに

 1989年暮れに劇的政変を経て新体制に移行したルーマニアでは、その後深刻な経済危機に見舞われ、1990年には国内総生産が対前年比10.2%のマイナスとなった。エネルギー確保の困難をはじめとする諸原因により、工業生産は前年比約20%のマイナスを記録した。こうした国内経済の混迷は貿易動向にも反映し、ハードカレンシィ貿易で16億ドルの赤字を余儀なくされた。また、改革に不可避的に伴うインフレ・失業も現れてきている。

 1990年5月の自由選挙により成立した救国戦線政権はこうした経済上の困難や政治的不安定にもかかわらず、市場移行をめざした経済改革努力を続けている。その改革路線は、「社会的支持と政治参加に基づいたルーマニア経済の改革、調整および安定化のプログラム」(ロマン首相)とされているが、IMFの勧告を取り入れ少なくとも言辞上は緊縮路線にコミットしており、生活水準が低く諸産業が荒廃している中でこうした路線をとることが適切か否か、議論の分かれるところである。

 以下は、1990年5月選挙以降のルーマニアの政治・経済情勢を概観し、また、1990年の経済動向および1991年の経済見通しを紹介するものである。なお、本稿に引用されているデータの大部分は与党・救国戦線評議会の機関紙という色彩が強い日刊紙『アデバールル』に掲載される解説記事に基づくものである。

 


 

1990〜1991年のブルガリア経済

1.1990年のブルガリアの経済動向

2.1991年のブルガリアの経済動向

 

はじめに

 1989年にひきつづき1990年もブルガリアの政局は大きく動いた。1990年1月、共産党の指導的役割を定めた条項が憲法から削除され、「結社の自由」法によって複数政党政治が可能になり、自由選挙の基本条件が整った。1月末、民主化の要求が高まるなか、第14回臨時党大会で共産党は党組織を大幅に改革する規約改正案と民主主義政党をめざす「政治宣言(民主社会主義宣言)」を採択、新党首となる最高評議会議長にアレクサンドル・リロフ政治局員が選出され、2月には、アンドレイ・ルカノフ最高評議会義貞が新首相に選出された。ルカノフ首相は「民主勢力同盟」などの在野勢力との連立を図ったが、民主勢力同盟がこの提案を拒否したため、共産党単独内閣となった。4月、人民議会は民主化を保証する憲法改正と自由選挙の基盤となる選挙法、政党法を採択して解散した。これにともない国家評議会は廃止され、新設の大統領職には国家評議会議長であったペタル・ムラデノフ氏が就任した。また、共産党は「社会党」へ名称を変更した。

 6月に行われた総選挙では、400議席のうち、社会党は過半数を超える211議席、民主勢力同盟は144議席を獲得したが、新政権は選挙結果に自信を持ち、民主化の引き延ばしを行ったためにかえって反政府運動が高まり、7月には1989年12月の民主化要求デモの際に武力投入発言をしたことが発覚し、ムラデノフ大統領が辞任した。大統領就任後わずか3カ月であった。

 その後8月に民主勢力同盟のジェリュ・ジェレフ氏が大統領に選出された。首相にはルカノフ氏が再び選出されたが、議会に提出された改革プログラムは具体性を欠くものであり、国民の満足のいくものではなかった。10月には民主勢力同盟の支持率は社会党の支持率を上回り、11月、ルカノフ退陣、内閣総辞職を求める12万人規模のストが起きた。その圧力に屈してルカノフ政権は発足後2カ月あまりで総辞放した。12月、ジェレフ大統領はソフィア地裁裁判長のデミタル・ポポフ氏に組閣を要請、これを受けて戦後初の連立内閣が12月20日ようやく発足した。新内閣のメンバーは以下のとおりである。

 首 相:デミタル・ポポフ POPOV,Dimitar(無所属)

 副首相:アレクサンドル・トモフ TOMOV,Aleksandar(社会党)

 副首相(兼外相):ビクトル・ワルコフ VALK0V,Viktor(農民党)

 副首相:デミタル・ルジェフ LUDZEV,Dimitar(属主勢力同盟)

 財務相:イワン・コストフ KOSTOV,Ivan(民主勢力同盟)

 産業・商業・サービス相:イワン・プシュカロフ PUSHKAROV,Ivan(民主勢力同盟)

 対外経済関係相:アタナス・パパリゾフ PAPARIZOV,Atanas(社会党)

 運輸相:ウェセリン・パブロフ PAVL0V,Veselin(社会党)

 司法相: ぺンチョ・ぺネフ PENEV,Penco(社会党)

 国防相: ヨルダン・ムタフチェフ MUTAFCHIEV,Yordan(社会党,留任)

 内務相:未定 4月22日にフリスト・ダノフ氏 DANOV,Hristo(無所属)が辞任

 農業・食品工業相:ボリス・スピロフ SPIROV,Boris(農民党)

 環境相:デミタル・ウォデニチャロフ VODENICHAROV,Dimitar(無所属)

 労働・福祉相:エミリヤ・マスラロワ MASLAROVA,Emiliya(社会党,留任)

 保健相:イワン・チェルノゼムスキー CHERNOZEMSKI,Ivan(社会党)

 文化相:ディモ・ディモフ DIMOV,Domo(無所属,留任)

 教育相:マテイ・マテーエフ  MATEEV,Matey(社会党,留任)

 科学・高等教育相:ゲオルギー・フォテフ FOTEV,Georgi(無所属)

 

 一方、199O年のブルガリア経済は、上記のような政局の激しい動きの影響を受け、具休的な経済改革はあまり進まなかった。さらにソ連からの原燃料供給削減のなか、湾岸戦争の勃発によって深刻な石油不足に陥ったため、石油製品を中心に物価が高騰し、基本的な物資には配給制が導入されるほど物不足が悪化した。また、工業生産、農業生産、貿易高など主要経済指標は大幅なマイナスとなった。

 ポポフ政権成立後、かなり抜本的な経済改革が導入されるようになった。ブルガリアは1990年9月にIMF、世界銀行に加盟し、1991年2月にはIMFの指導のもと、価格の完全自由化、通貨の10分の1切下げが行われた。1991年2月末には農地法、5月には競争・非独占化保護法(独占禁止法)、商法、外資法が成立したが、そのほか民営化法をはじめ、さまざまな経済改革関連法実の採択が急がれている。

 ブルガリアは政治面の不安定性から東欧諸国のなかでも経済改革が遅れており、その改革の実施はまだ始まったばかりである。IMF、世界銀行そのほかの国際金融機関からの融資が見込まれており、ブルガリア政府はこの融資が経済改革を促進することを期待している。

 


 

1990〜1991年のユーゴスラビア経済

 

1.1990年のユーゴスラビア経済の動向

2.1991年のユーゴスラビア経済の展望

 

はじめに 

 1990年,「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」(ユーゴスラビアの正式名称)は重大な歴史的転機を迎えた。すなわち、ひとつには戦後一貫して単独で政権を担ってきたユーゴスラビア共産主義者同盟が1990年1月に開催された臨時大会を契機として事実上分裂・解体にいたったことである。そしてモンテネグロを除くすべての共和国・自治州で、共産主義者同盟は党名を変更するか、または新党として再編成された。また、春と冬には第2次大戦後初めての自由選挙が各共和国レベルで行われ、スロベニア、クロアチア、ボスニア=ヘルツェゴビナ、マケドニアで旧共産主義者同盟は敗北し、政権を失った(ただし、スロベニアとマケドニアでは共和国元首である幹部会議長を維持した)、旧共産主義者同盟に代わって、各地で民族主義的色彩の濃い政権が成立した。この結果、連邦国家「ユーゴスラビア」は第2次大戦後最大の危機を迎えることになった。

 クロアチアは1990年11月、連邦からの分離権を明記した新憲法を採択した。これに先立って分離権を明文化していたスロベニアでは同年12月、さらに独立の是非を問う国民投票を実施して94.7%(有権者の88.2%)の賛成を得た(クロアチアも同様の国民投票を1991年5月に実施し同様の結果を得た)。1991年2月には、スロベニア内での連邦法の無効を宣言し、ユーゴスラビアからの分離をめざす計画を採択した。ほとんど時期を同じくして、クロアチアも連邦からの分離手続きを開始することを決議している。

 経済的に相対的に豊かな両共和国は、ユーゴスラビアを統合ECをイメージした主権国家の連合体(コンフェデレーション)として再編することを主張し、それが容れられなければ分離独立することを骨子とした協定を結んでいる。これに対して、人口で多数を占めるセルビア、モンテネグロは現行の連邦(フェデレーション)制度の維持を主張して、スロベニア、クロアチアを分離主義だと強く非難した。さらに、連邦からの資金援助を受けてきた低開発地域であるボスニア=ヘルツェゴビナ、マケドニアは、連邦か国家連合かの選択には触れずに、国家共同体としてのユーゴスラビアの存続を主張している。

 バルカン諸国の宿癖である民族対立は、これまでのコソボ自治州におけるアルバニア人とセルビア・モンテネグロ人との対立に加えて、1990年4月の選挙でクロアチアに民族主義的政権が誕生してからは、クロアチアとセルビアの2大民族の対立が新たに激化してきた。セルビアのミロシェビッチ議長は、クロアチアが連邦から離脱するならば、セルビア国境線の見直しをせざるをえないと発言した。これに呼応するかのように、夏以降クロアチア内部のセルビア人が「文化的自治」を要求して、武装も含めた行動を活発化させた。9月にはクロアチアの南部山岳地帯のクニンを中心にセルビア人が一方的に「クライナ・セルビア自治区」を宣言している。これ以降、この地域にユーゴスラビアの民族紛争の中心が移ってきており、連邦軍の出動も頻発するなど、内戦寸前の状況が続いている。セルビアとクロアチアの対立は、連邦国家「ユーゴスラビア」の存亡にとって、他のどの民族の対立より深刻であり決定的なものである。

 こうして選挙以降のユーゴスラビアの政治情勢は、共和国間の対立、頻発する民族紛争、そのたびに非常事態宣言あるいは軍の投入などをめぐって内戦の危険が切迫するなど、まったく流動的であり、ユーゴスラビア国家の危機はなんら有効な形では打開されていない。本来であれば、既に1990年5月で任期の切れた連邦議会の自由選挙を実施して,ユーゴスラビアとしての政治民主化の結論を出すべきであった。しかしいまや、「ユーゴスラビア」国家の将来をめぐって対立が深刻化している状況では、連邦レベルの選挙はとうてい政治日程にのぼらない。したがって、当面の緊急かつ最重要課題は、戦前のユーゴスラビア王国、戦後の自主管理社会主義をめざした連邦国家ユーゴスラビアに続く、いわば第三の「ユーゴスラビア」についての歴史的合意を各共和国の間で形成する。あるいは第三を形成しない、つまりユーゴスラビアを平和裏に解体することである。

 共和国間の対立が激化するなかで、連邦政府・議会の権限・機能は麻痺状態に陥り、ユーゴスラビア全体に対する統制力を失った。これに代わるかのように、集団国家元首である連邦幹部会に各共和国議長(元首)を加えた拡大連邦幹部会が頻繁に開催され、緊急問題の対策を講じるようになった。さらに、1991年3月末からは共和国議長の協議を各共和国の持回りで当面2カ月間にわたって開催することで合意した。4月21日にスロベニアで開催された協議では、5月末までに∴ユーゴスラビアの将来の国家体制を問う国民投票を実施することで合意した。しかし、5月15日の連邦幹部会で、1年交代・輪番制の幹部会議長(国家元首)を選出することができず、元首不在(不定)という異常事態が生じた。これによりユーゴスラビア情勢はいっそう不安定かつ流動化することになり、先の国民投票の実施は全く不確定となった。ユーゴスラビア国家はもはや解体寸前の状態にある。いずれにせよ、1991年は連邦国家「ユーゴスラビア」の存亡を決める年となろう。

 


 

1990〜1991年のアルバニア経済

 

1.1990年の経済動向

2.1991年の経済の展望

 

はじめに

 1989年、大きな変革のうねりが東欧全休に波及するなかで、唯一旧中央集権的社会主義(スターリン主義)路線の堅持を表明し、東欧の改革を批判してきたアルバニアであるが、1990年にはこの国も歴史の大きな流れに合流せざるをえなくなった。

 すでに1985年に、戦後アルバニア建国の父であるエンベル・ホッジャ労働党第一書記が死去するとともに、そのかたくなな「鎖国」主義にも少しずつ変化をみせていた。そしてこの変化は、199O年lこなると急速で後戻りのできない方向に動きだした。それを劇的に示したのが、1990年7月に旅券法の改定を契機として、大量(約6,000人)の市民が西ドイツ、フランス、イタリアなどの外国大使館への駆け込み、当局も最終的にパスポートを発給して全員の出国を認めるにいたった事件である。

 これに促されるようにアルバニア政府は、1990年7月末に29日ぶりにソ連と国交を回復した。また米国とも、10月にアリア第一書記が国連給金出席と同時に訪米し、国交樹立について合意している。さらに、アルバニアが唯一の不参加国となっていた、全欧安全保障協力会議(CSCE)にもオブザーバー参加を申請(7月10日承認)するなど活発な開放へ向けた外交を展開しはじめた。

 また、これまでは「鎖国」政策の柱となっていた、外国からの借款を禁止する憲法の規程を、事実上放棄する方針を打ちだした。つまり、1990年7月31日の人民議会幹部会令で、外国からの投資の保護、利益の交換可能通貨による国外送金の認可が布告され、あわせて憲法の改定も提起されたのである。1991年2月には、155番目のIMF加盟国の申請も行っている。

 改革の動きはその後も主として政治分野ですすんだ。1990年12月には労働党中央委員会総会で、政党と政治活動の組織化の自由が決定された。これによって、戦後はじめて労働党以外の政党である民主党が認められた。これと前後してチラナはじめ各地で反政府活動が活発化した。そして同月末には、大統領制の導入や政党結成の権利などを内容とする憲法改定草案を発表した。年が明けて2月には、チラナで学生のストライキが起こり、同月22日には2閣僚を除くすべての閣僚が更迭された。当初2月に予定されていた初の自由選挙は、結局反政府勢力の反対もあって3月31日に延期されて実施された。選挙結果は、チラナなど都市部では野党民主党が大きな議席を占め、アリア第一書記など大物が落選となった。だが、農村部ではこれまでの政権党である労働党が圧勝し、4月7日の第2

回投票結果とあわせて168議席を得て全議席の3分の2を確保した。同月30日に開かれた議会で、与党労働党のアリア第一書記を大統領に選出した。また、同大統領は新首相に党内改革派ともくされるナノ前首相を指名した。

 この1年で、アルバニアは新たな転換の過程に入り込んだといえるが、労働党政権継続のもとでは徹底した政治・経済の改革の遂行を危ぶむ声が大きい。アリア政権が、旧体制に別れをつげて、どの程度実質的な改革に踏み込むのかが注目されるところである。

 


 

1990〜1991年のモンゴル経済

 

1.1990年のモンゴル経済実績

2.1991年のモンゴルの経済・社会発展の基本方向

 

はじめに

 1990年、モンゴルでは、人民革命党(共産党)による一党独裁の放棄、複数政党による自由選挙の実施(7月)、与野党連立政権の誕生(9月)と、政治改革が急ピッチで進められた。1990年11月に誕生した新内閣は、1991年からの3年間で社会主義計画経済から市場経済に移行するという方針を掲げ、本格的な経済改革に着手した。

 新政権による市場経済移行プログラムの骨子は,国有財産の私有化,企業の民営化,外国貿易と金融制度の改革の実施などである。

 市場経済への移行に向けて,すでに1990年に外国投資法や税法の制定,初の外貨オークションの開催、商業銀行の設立といった一連の措置がとられたが,1991年に入り,銀行法,国有財産の私有化に関する法律が採択されるなど,移行プログラムに沿った改革がさらに進められている。

 現在,モンゴル経済は,物不足の深刻化,失業の増加といった困難な問題に直面している。経済悪化のおもな原因としては,硬直化した計画経済システム,行政・指令システムに慣らされた国民の意識変革の不徹底,極端な対ソ依存型経済構造が挙げられる。とくに近年のソ連経済の悪化によってモンゴル経済は深刻な打撃を被っている。モンゴルは対外経済開放化政策を打ち出し,西側との関係拡大によって,経済的な自立をはかろうとしており,とくに,日本,韓国などアジア・太平洋地域との協力の重視を表明している。

 こうした姿勢は,国際金融機関への積極的アプローチという形にもみられ,1991年2月にはアジア開発銀行,同3月にはIMF,世銀への加盟が実現された。外国投資法,石油法の制定等,外資導入のための国内の法制面の整備も行われている。

 日本からは1990年12月,4億5,000万円の初の無償援助供与が決定されるなど,政府の対モンゴル支援の動きに伴い,産業協力の動きも活発化してきた。1991年8月には政府首脳のモンゴル訪問も予定されている。

 以下,在日モンゴル大使館の提供によるモンゴル国家統計局およびモンゴル通商産業省の資料,『ノーボスチ・モンゴル』紙,ソ連『海外経済情報』紙に基づき,1990年の経済実績と1991年の経済の基本方向について概観する。