ソ連東欧貿易調査月報 1991年8月号 |
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ソ連ロシア共和国カリーニングラード州の経済発展と経済特区
―カリーニングラード州代表団講演会より―
1.カリーニングラード州の経済発展動向 ユーリ N. セミョーノフ
2.カリーニングラード州の経済特区の問題点 ユーリ S. マートチキン
3.ソ連における外国投資発展の可能性 ゲンリフ K. ウォイトロフスキー
4.質疑応答
はじめに
当会では、ソ連・カリーニングラード州代表団が来日したのを機に、8月8日に講演会を開催した。本月報では、カリーニングラード州の経済動向、経済特区の問題点をテーマとした講演会の内容を紹介する。
カリーニングラードは、旧称ケーニヒスベルクというドイツの都市であり、第2次大戦後にソ連領となり、地理的にはソ連でもっとも西に位置している。港湾設備をはじめ鉄道、自動車、河川、航空などの輸送が整備されておりたい西欧および国内交通の要所としての価値がたかまっている。また、経済特区の創設も検討されており、西側諸国との経済協力を推進している。
後援者はカリーニングラード州ソビエト議長ユーリ N. セミョーノフ氏、ソ連人民代議員ユーリ S. マートチキン氏、ソ連対外経済関係研究所副所長ゲンリフ K. ウォイトロフスキー氏である。
ソ連極東地域に対する新優遇措置
―資料紹介―
ソ連邦内閣ならびにロシア連邦共和国閣僚会議発令
資料紹介
事実上、放棄されていた「長期極東総合計画」に代わって、新たな極東開発構想「極東経済地域構想およびザバイカルにおける危機打開ならびに2000年までの社会・経済発展促進構想」が1991年5月30・31日、ハバロフスクで開催された極東協会第4回調整委員会で検討、承認された。
この構想の立案に当たって中心的な役割をはたいたソ連化学アカデミー極東支部・経済研究所所長P.A.ミナキル氏によれば、同委員会には極東地域の州、地方、自治共和国の代表、ロシア共和国政府の代表、ハバロフスクの関係者が参加したという。
こうした動きを受けて、7月27日、パブロフ・ソ連邦首相(当時)とシラエフ・ロシア共和国首相が共同文書「国有企業の自社製品の取り扱い権限の拡大について」に署名した(ソ連『コメルサント』紙1991,No.31)。これによって、1991年末まで極東地域の国有企業は自社製品の30%を自主的判断で販売・輸出し、得られた資金を使って不足している生活必需品や食料品を購入でき、またその際、輸入税、関税が免除されることになった。
同文書はすでに、『ソビエト・ロシア』紙(1991.8.3)に一部掲載されているが、ここでは当研究所が入手した資料を翻訳、紹介する。
〈資料〉ソ連危機脱出計画
はじめに
以下に紹介するのは、「市場経済移行の条件下で国の経済を危機から脱出させるためのソ連内閣と各主権共和国政府の共同行動プログラム」(ソ連『イズベスチア』紙、1991年7月10日付)の全文翻訳である。これは、通常「危機脱出計画」と呼ばれており、当初はパブロフ首相(当時)によってソ連邦内閣の提案として出され、1991年4月23日のソ連最高会議でその大筋が承認された。その際に共和国などの指摘・提案などを考慮して補充・訂正などして完成させることになっていた。7月10日の新聞発表によれば、完成された危機脱出計画は、ゴルバチョフ大統領の承認をうけており、さらに初めて連邦政府と各共和国政府との共同プログラムとして作成された。作成に参加した共和国は、ロシア、ウクライナ、白ロシア、ウズベク、カザフ、アゼルバイジャン、キルギス、タジク、アルメニア、トルクメンの10共和国であった。
この危機脱出計画に関しては、ほぼ時期を同じくして出されたソ連経済改革への提案である米ソの専門家グループによる『チャンスへの合意―ソ連・西側の共同プログラム』(通称グランド・バーゲン)がある。このグループの中心メンバーであったヤブリンスキーなどによって、政府の危機脱出計画は緊急対策となっていないなどと批判されていた。しかし8月に調印が予定されていた連邦条約と共に、一部共和国を除いて連邦政府と各共和国が当面の経済政策について合意に達したことは重要な意義を持つ。8月19日のクーデター以後、ソ連の情勢はきわめて流動的であり、連邦の解体の動きも強まっている。したがって、ソ連全土にわたる経済政策の行方も不透明なままであるが、以下に訳出したプログラムは今後の連邦・共和国間の協議などにとって、依然として重要なたたき台を成す事は明らかである。