ソ連東欧貿易調査月報

1991年12月号

 

T.ロシア共和国サハリン州の経済地理

U.極東ミッション帰国報告

V.日ソ専門家会議ソ連側代表団報告

W.ロシア共和国政府の新体制

X.1991年1〜6月のソ連貿易動向

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月報年間目次1991年分)

日ソ・東欧貿易月間商況1991年11月分)

ソ連・東欧諸国関係日誌1991年11月分)

対ソ連・東欧諸国・モンゴル輸出入通関実績

1991年10月および1 〜10月累計)

 


 

ロシア共和国サハリン州の経済地理

 

1.サハリン州の自然

2.サハリン州の住民と地方行政

3.産業

4.極東2000年新構想とサハリン州

 

はじめに

 サハリン州の面積は8万7,100㎢あるが、極東ではもっとも小さな州であり、極東総面積の1.4%に過ぎない。しかし人口は71万3,000人(1991.1.1)であり、人口密度でみると1㎢当り8.2人が住んでおり、全極東平均人口密度1.3人より6.3倍も多く、沿海地方に次ぐ人口集中地区となっている。

 このサハリン州は、ソ連のなかでは日本にもっとも近く、歴史的にもわが国との関係が深い、周知のように第2次世界大戦終結の1945年までは、サハリン島の北緯50°以南とクリル諸島(千島列島)は日本が統治していた。当時ここにはさまざまな産業が生れたが、ソ連時代に受け継がれ、州の主要産業に発展したものがいくつもある(例:鉄道、紙、パルプ産業、石炭産業等々)。

 このように日本と縁の具会サハリン州であるが、一方この州の管轄地域には戦後の日ソ間で未解決の領土問題がある。本年4月、東京で開かれた日ソ政府首脳会談で平和条約に関連する諸問題が討議されたが、ここでは北方領土問題も4島名をあげて話し合われた。

 こうした両国間の政治情勢をうけて、サハリン州と日本との経済交流を深めていくには、この州の現況、特に経済状況をいっそう掘り下げて知る必要があろう。本稿はこうした角度からサハリン州の経済地理的考察を試みた。

 執筆者は島津朝美氏である。

  


 

極東ミッション帰国報告

 

1.極東経済の変貌  ソ連東欧経済研究所長 金森久雄

2.極東ミッションと中尾通産大臣訪ソ  通商産業省通商政策局次長 藤原武平太

 

はじめに

 当会では研究所長の金森久雄氏を団長として1991年10月11日〜21日の日程でソ連極東地域へ経済調査団を派遣した。ハバロフスク、コムソモルスク・ナ・アムーレ、ワニノ、ユジノ・サハリンスクの各地を訪問し、極東経済開発に関するシンポジウムを開催し、また軍需関係を含む工場およびインフラの視察、関係者との懇談を行ってきた。これに基づき、11月5日に帰国報告会を開催した。以下では、金森団長と藤原通産省通商政策局次長の講演を紹介する。

 


 

日ソ専門家会議ソ連側代表団報告

 

1.共和国への権限委譲と連邦経済  景気研究所副所長 A.ゴンチャロフ

2.対外経済関係の現状と展望  景気研究所対外貿易部長 M.サラファノフ

                     ロシア共和国外務省付属対外経済関係委員会アジア局長 M.シャポワロフ

3.環日本海経済圏構想におけるソ連の役割  景気研究所研究員 D.ボロンツォフ

 

はじめに

 このほど当会ソ連東欧経済研究所は1977年よりソ連の景気研究所との間で実施している日ソ専門家会議のソ連側代表団を招き、講演会を開催した。代表団メンバーはA.ゴンチャロフ景気研究所副所長、Y.シーポフ同日本部長、M.サラファノフ対外貿易部長、M.シャポワロフ・ロシア共和国外務省付属対外経済関係委員会アジア局長の4名。

 講演テーマは次のとおり。

 1.ゴンチャロフ「共和国への権限委譲と連邦経済」

 2.サラファノフ、シャポワロワ「対外経済関係の現状と展望」

 なお、景気研究所研究員D.ボロンツォフ氏の論文「環日本海経済圏構想におけるソ連の役割」をあわせて紹介する。この論文は、当会ソ連東欧経済研究所との交換研究員制度に基づいて同氏が来日した際に執筆したものである。

 


 

ロシア共和国政府の新体制

 

1.ロシア共和国政府の改組に関するロシア共和国大統領令

2.経済改革の条件下におけるロシア政府の活動の組織に関するロシア共和国大統領令

3.ロシア共和国国家管理中央機関の改組に関するロシア共和国大統領令

4.ロシア共和国閣僚略歴

 

はじめに

 ソ連では8月のクーデター未遂以降、政治の単位・枠組が完全に共和国に移行し、各共和国独自の政治体制の整備が進んでいる。もちろん最大の共和国ロシアも例外ではなく、ロシア共和国の政治体制の帰趨はきわめて注目される。そこれここでは、エリツィン・ロシア大統領が打ち出した、急進経済改革を断行するための政治機構改革と新指導部を紹介する。

 紹介するのは次の4つの資料である。

 1.ロシア共和国大統領令「ロシア共和国政府の改組について」(1991年11月6日付)

 2.ロシア共和国大統領令「経済改革の条件下におけるロシア共和国政府の活動の組織について」(1991年11月6日付)

 3.ロシア共和国大統領令「ロシア共和国国家管理中央機関の改組について」(1991年11月28日付)

 4.ロシア共和国閣僚略歴

 1.の大統領令は、政府改組のおおまかな方針をうたった短文で、その具体的な内容は2.の大統領令により肉付けされている。また、注目されるのは後者の大統領令の2つの付属文書である。第1号の付属文書ではロシア共和国政府の構成が明らかにされており、省庁の一覧を知ることが出来る。第2号では、改革が滞りなく実施されているかどうかを監視するために今回設けられることになった「改革監督本部」の構成が示されている。

 3.の大統領令は1.、2.を補足しロシア共和国省庁の統廃合の具体措置を規定したものだが、きわめて注目されるのは、この大統領令の付属文書において解体される連邦の各省庁の資産がロシア共和国のどの省庁に引き継がれるかが示されている点である。

 ところで、この付属文書を見ていると、奇妙な印象をぬぐえない。これまできわめて中央集権色の強かったソ連の行政機構は当然首都モスクワに集中しており、ロシア共和国がその領土内の連邦資産を接収するとなれば、実質的にロシア共和国が連邦機構の大部分を後継すると言うことになる。連邦の解体は必至であるが、ある意味でロシア共和国が”縮小版ソ連”として旧ソ連の実質を引き継ぐことになるのだろうか。

 なお、指摘すべきは、28日に出された3.の大統領令では6日時点と比べて既に省庁名の微修正や新規省庁の追加が生じている(本文で2.と3.の大統領令を参照されたい)。まさに朝令暮改の観があり、こうしたことが続くかぎり諸外国の信用は得られまい。

 今回の政府機構改革の眼目は、大統領が行政機構を直接的に掌握することにより、強力な政策執行体制を打ち立てることにある。このため、行政機構は単に「政府」(プラウィーチェリストウォ)と呼ばれ、その長を大統領が自ら務めることにより実質的に首相を兼任する。ただし、その負担を軽減するために第一副議長(第一副首相)が組織管理上重要な役割を果たす。その意味でもエリツィン氏の最大の腹心と見られているブルブリス第一副議長がキーマンといえよう。これ以外に副議長(副首相)が3名おかれる模様だが、なかでも経済改革担当副議長は13もの経済官庁の舵取りを慰することになり、このポストには若き改革は経済学者、ガイダル氏が抜擢された。両氏を含む閣僚の顔ぶれと経歴を紹介したのが4.の資料である。

 今回の改革は、エリツィンがゴルバチョフ改革の失敗に学んだ結果といえよう。つまり改革を前進させるためには、強力な行政権力が不可欠なのである。ゴルバチョフはついに、改革推進主体としての行政機構を形成できなかった。今回の大統領令を見ると、連邦政府の失敗に鑑み、急進改革断行をにらんで周到な権力規定がなされてはいる。とはいえ、こうした路線が一面では民主化と矛盾することも事実である。ロシアの指導部がどこまで一枚岩の結束を保てるかも未知数といえよう。全体としてみれば、行政権力主体の市場経済移行という、連邦レベルで既に挫折した路線を、今度は共和国レベルで試みるということであり、その見通しは決して楽観できるものではない。

 もう一点だけ留意すべき点をあげれば、ある種の非常時とはいえ、こうした政治権力にかかわる重要な決定を、本来の立法機関である議会を迂回し、大統領令という半ば超然敵名手段により導入することは、危険をはらんでいるといわねばならない。安易な権力強化や制度変更を繰り返すことが、独裁権力が登場し恣意的な権力操作を行う土壌を作り出しかねないからである。エリツィン改革がおそらくは国民生活へのしわ寄せを招くと考えられるだけに、その際の政治の右傾化に備える意味でも適法主義を貫いておくべきである。

 なお、訳出の留意点であるが、〔 〕部分は当会の補足である。また、ロシア共和国の席式国名は依然としてロシア・ソビエト連邦社会主義共和国であるが(1991年12月半ば現在)、本稿では単に「ロシア共和国」、もしくは「ロシア連邦」と約した。

 出典は1.、2.が『政府通報』紙(No.47(125),1991年11月)3.が『ロシア新聞』(1991年12月5日)、4.が『イズベスチヤ』(No.278, 1991年11月22日)である。

 


 

1991年1〜6月のソ連貿易動向

 

資料紹介

 ソ連『外国貿易』誌(1991年No.9)に1991年1〜6月のソ連の国別貿易動向が発表されたので、取引圏別にデータを整理したものをくわえて紹介する。

 1991年1〜6月の貿易総額は前年同期比38.4%と大幅に減少し、778億ルーブルであった。このうち輸出は26.8%減の407億ルーブル、輸入はほぼ半減にちかい47.6%減の370億ルーブルであった。輸出入とも大幅な減少であったが、特に輸入の落込みが大きかったため、貿易収支は37億ルーブルの黒字になった。

 1991年1〜6月の貿易動向を取引圏別にみてみると、金額では前年同期と比較してすべての取引圏で減少し、特に対発展途上諸国輸入では92.8%減であった。シェアでは先進工業諸国との貿易は前年同期の46.9%から59.4%になり拡大したが、そのほかの取引圏では前年同期を下回った。特にシェアが落ち込んだのはやはり対発展途上諸国輸入で、前年同期の10.5%から1.4%に減少した。

 社会主義諸国との貿易高は、1991年1〜6月には総額256億ルーブルであった、このうち旧コメコン諸国との貿易は、自由交換通貨による決済への移行にともない大きく減退し、対前年同期比55.1%減の207億ルーブルになった。社会主義諸国との貿易で増加したのは、対中国、ユーゴスラビア輸出のみで、対中国輸出は対前年同期24%の伸びであった。

 先進工業諸国との貿易高は、1991年1〜6月対前年同期比22.0%減の462億ルーブルであった。とくに輸入は32.3%と大幅に縮小した。同諸国との貿易の縮小は主に外貨不足によるが、ソ連の外貨収入の大半は対外債務の支払いに充てられている。先進工業諸国のなかで貿易高が前年同期を上回ったのは、オランダのみであった。

 輸出が増加した主な国は、スイスが対前年同期比135.6%増、デンマークが63.4%増、オーストリアが19.0%増、オランダが17.8%増であった。輸出が大幅に減少したのはニュージーランド、オーストラリア、スペイン、アイスランドであった。輸入は外貨不足のため軒並み減少し、輸入が前年同期より増加したのはオランダのみで対前年同期比13.2%であった。もっとも輸入が減少したのはポルトガルで前年同期より92.9%減少した。主要輸入国ではフィンランドが77.1%減、英国が49.6%減、スウェーデンが47.8%減、スイスが43.9%減、日本が35.2%減であった。

 ソ連と発展途上国との1991年1〜6月の貿易高は大幅に減少し、対前年同期比60.9%減の60億ルーブルであった。とくに輸入は前年同期より92.8%減少した。その結果貿易収支は49億ルーブルの黒字になった。同地域のソ連の貿易に占めるシェアは小さいが、輸出ではサウジアラビアが前年同期の9.4倍、キプロスが3.7倍、イランが2.8倍に増加した。同諸国からの輸入はほとんどの国で減少したが、イランからの輸入は前年同期より144.4%増加し、アルジェリアは83.8%増であった。