ロシア東欧貿易調査月報

1992年11月号

 

特集:東欧諸国の1992年上半期の経済動向

T.1992年の上半期のポーランド経済

U.1992年の上半期のチェコスロバキア経済

V.1992年の上半期のハンガリー経済

W.1992年の上半期のルーマニア経済

X.1992年の上半期のブルガリア経済

◇◇◇

旧ソ連・東欧貿易月間商況(1992年10月分)

旧ソ連・東欧諸国関係日誌(1992年10月分)

CIS・グルジア・東欧諸国・モンゴル輸出入通関実績1992年9月および1〜9月累計)

 

 


 

1992年の上半期のポーランド経済

 

はじめに

 1992年上半期、ポーランドは政治的混迷に振り回された。1991年秋に成立したオルシェフスキ内閣は早くも1992年6月には退陣を余儀なくされ、その後を次いだパブラク新首相は組閣に失敗、スホツカ新首相を首班とする新内閣が誕生したのは7月に入ってからであった。

 ともあれ、新内閣の成立により、昨年秋以来続いていた政局の混乱に終止符が打たれ、ポーランドはようやく経済改革に本腰を入れて取り組めることになったといえよう。

 しかし、スホツカ新政権は発足後、労働者による賃上げ要求ストの洗礼を受け、その前途は決して楽観できない(1992年7月だけでも38件のストライキがあり、47件の抗議行動があった)。新政権は今後、産業構造の転換を国有企業の民営化と結びつけて実行しなければならないが、その際、国有企業の労働者との対決は避けられず、一定の妥協を図っていかざるを得ず、IMFとの合意をどう調整していくかが問題となる。

 このような状況にもかかわらず、1992年上半期のポーランド経済は回復の兆しを見せるまでになってきている。今のところ、この動きは私的セクターにおける経済活動の活発化および好調な輸出に支えられており、本格的な経済成長はさらに先のことになるものと見られている。

 いずれにせよ、民営化に伴う社会的混乱をいかに緩和しつつ、産業構造の転換、経済の開放化を推し進めるかが、当面の最重要課題となろう。

 


 

1992年の上半期のチェコスロバキア経済

 

1. 若干の回復傾向を示す1992年のチェコスロバキア経済

2. 民営化の動向

3. 貿易と外貨収入

4. 1993年のチェコスロバキア連邦の分裂

 

はじめに

 1992年上半期にチェコスロバキア経済は、1991年の大幅な後退からの立ち直りを見せた。工業生産は第1四半期に比べ第2四半期には減少に歯止めがかかった。投資の減少幅も小さくなり、建設事業とサービス部門では前年同期を上回る実績を上げた。物価は鎮静化しつつあり、小売商品売上高は1991年の39.2%減という激しい落ち込みから13%増に転じた。

 財政では、政府の緊縮政策が功を奏し、1992年上半期には黒字を計上、また交換可能通貨による経常収支も黒字となり、対外信用を高める結果となった。とくにECを中心とする先進諸国との貿易および外資導入の活発化は、チェコスロバキア経済の再編を促す要素として期待が寄せられていた。

 しかし1992年半ば、チェコスロバキアでは政治面でチェコとスロバキア両共和国の分離という新しい変革が生じた。6月の総選挙を機に両共和国の対立が先鋭化し、193年1月1日をもってそれぞれ独立することになった。

 現在、両共和国は、新体制のもとでの関係再構築を進めつつある。

 1993年にはこの分離に伴う社会的混乱をどこまで小さく抑えることが出来るかが、両国政府にとって当面の最大の課題となろう。

 


 

1992年の上半期のハンガリー経済

 

はじめに

 ハンガリーは、中・東欧諸国の中でも、最も安定した政治情勢が保たれている。ただ、周辺諸国の社会的不安定の影響は無視できず、ハンガリー政府はこれら諸国にすむハンガリー人の保護や、旧ユーゴスラビアからの難民受入に苦慮している。

 経済では、1990〜1991年の後退のあと、1992年には回復に向かうことが期待されていた。しかし1992年上半期には前半に続くマイナス成長となっている。生産部門では農業部門で不安定さが増しているが、工業では生産低下に歯止めがかかりつつあり、投資・建設部門の回復傾向とあいまって、1992年後半には経済全体が改善に向かうことが期待されている。

 外資導入と貿易動向は好調に推移しており、ハンガリー経済への国際的信頼の高さを示している。

 今後、懸念されるのは民営化の進行に伴う企業倒産と失業の増大である。これに関連し、現行の破産法の修正がクローズアップされており、その動向が注目される。

 


 

1992年の上半期のルーマニア経済

 

1. 選挙結果

2. 1992年上半期の経済実績

 

はじめに

 東欧諸国を変革の波が洗った1989年からすでに3年が過ぎようとしている。ほとんどの国では自由選挙により誕生した民主政権が急進的な市場経済導入に挫折し、経済の低迷と社会的混乱を招いている。こうしたことから、当初の楽観的なムードは消えうせ、民主主義および市場経済導入という最終目標に変更はないものの、改革路線のなんらかの見直しを迫られているのが現在の局面であるといえよう。

 だがチャウシェスク体制崩壊後の新生ルーマニアの歩みは他の東欧諸国とは若干異なるものであった。自由選挙が行われ、その結果成立した政府が市場経済体制への転換を図るという意味においてはルーマニアも他の 国々と共通している。ルーマニアが特殊であるのはまず、市場経済への急激かつ全面的移行が国民レベルにおいてコンセンサスを得たことがないという点である。したがって、1990年5月および今回(1992年9月、10月に 決選投票)の2度の大統領選挙とも、旧体制との継続性をもち穏健な改革を主張するイリエスク氏が制することになった。しかしながら、イリエスク大統領の指名により成立したロマン内閣(1990年6月〜1991年9月)、ストロジャン内閣(1991年10月〜1992年9月)とも 、少なくとも言辞上は急進改革主義を標榜し、その経済改革路線は他の東欧諸国と大差ないものであった。ここに、保守派の大統領の下で、ショック療法まがいの政策路線が追求される奇妙な構図が生じた。

 1992年9月の革命後2度目の総選挙では、保守派(イリエスク大統領)が勝利し、また民族主義政党のいっそうの台頭をみた。第一期のイリエスク政権下では、曲がりなりにも経済改革が進められてきたが、今回の選挙結果は急進改革路線が退けられたことを意味し、新政権では改革路線を大幅に修正してくるのではないかと西側では懸念されている。だが、東欧の改革トップランナーたちが次々と経済自由化に行き詰まり、体制転換の遂げ方だけでなくその目標すらも必ずしも自明ではなくなっていることを考えればルーマニア国民の選択についての評価は性急に下すべきではなかろう。

 


 

1992年の上半期のブルガリア経済

 

1. 1992年上半期の経済実績

2. 民営化の進捗状況

 

はじめに

 ブルガリアは旧共産党政権下でコメコン内の分業体制に最も深くかかわっており、コメコン諸国、とくに旧ソ連との協力関係を前提とした貿易、産業構造を構築してきた。そのため、コメコン解体と旧ソ連の崩壊はブルガリア経済に大きな衝撃を与えた。原燃料基盤が脆弱なブルガリアではコメコン諸国、旧ソ連からの安価な原燃料の輸入に依存してきたが、コメコン解体と旧ソ連の崩壊によって、原燃料の輸入が大幅に縮小したため、工業生産は減少の一途をたどっている。1992年上半期のブルガリア経済も1991年と同様に悪化し、インフレは続き、失業者は増加し、財政赤字は拡大し、外国貿易も縮小した。経済改革関連法では懸案とされてきた民営化法が1992年5月8日に発効して民営化庁が新設され、今後の活動が期待されているが、政治的混乱が経済改革、民営化に悪影響を及ぼすことが懸念されている。

 政治面では、1992年1月にブルガリアで初めての直接選挙の大統領選が行われ、決選投票の結果、民主勢力同盟、(UDF)のジェレフ氏が社会党(旧共産党)の候補を破り大統領に選出された。UDFは1991年の総選挙に続き大統領選でも勝利を収め、一応、実権を握ることになった。しかし国会でのUDFの議席は110議席、農村部に依然として強い支持基盤を持つ社会党は106議席とわずかに4議席しか差がなく、今後の国会における経済改革関連の決議には24議席を有するトルコ系の「権利と自由のための運動」(MRF)が影響力をもつことになるであろう。

 ブルガリアでは10月28日にディミトロフ内閣に対する不信任案の投票が行われた結果、不信任120票、信任111表の僅差で不信任案は可決され、ディミトロフ内閣は総辞職した。内閣でのポストをめぐってMRFから連立内閣組閣の同意を得られず、連立内閣をあきらめたディミトロフ氏は11月20日、UDF単独内閣の組閣案を国会に提出したが賛成104、反対124でディミトロフ氏の首班指名と組閣案は否決され、憲法の規定により第2党の社会党が組閣を行っている。ブルガリアの政局はいっそう混迷の度を深めている。