ロシア東欧貿易調査月報

1995年5月号

 

T.1994〜1995年のロシア経済

U.1994〜1995年のポーランド経済

V.1994〜1995年のチェコ経済

W.1994〜1995年のスロバキア経済

X.1994〜1995年のハンガリー経済

Y.1994〜1995年のルーマニア経済

Z.1994〜1995年のブルガリア経済

[.1994年のスロベニア・クロアチア・新ユーゴスラビア経済

\.1994〜1995年のモンゴル経済

◇◇◇

旧ソ連・東欧貿易月間商況1995年4月分)

旧ソ連・東欧諸国関係日誌1995年3月分)

旧ソ連・東欧諸国関係日誌1995年4月分)

 

 


 

1994〜1995年のロシア経済

 

1.1994年のロシア経済

2.1995年のロシア経済

 

はじめに

 1993年に一度は低落速度が鈍化したことから、立ち直りの兆しがみえたかに思われたロシア経済であるが、1994には国内総生産(GDP)が前年比で15%減と、実際には経済の低落傾向は加速することになった。

 全体的なトレンドは、財政・金融引締政策が基本的に維持されているものの、企業間債務問題や投資活動の低迷という基本的問題は未解決であり、比較的高いインフレ水準と国内向け製造業の崩壊という特徴はかわらない。

また、一時は縮小化傾向をみせた所得格差も再び拡大に転じつつある。

 このような経済状況でも、1994年のロシアの政治・社会状況は比較的平穏なまま推移した。この背景には、プリミティブな市場経済のもとでも商品・貨幣関係が国民生活の隅々まで浸透している現状がある。しかし、ロシア社会全体が貨幣の力によって翻弄されている現状も見逃せない点ではある。

 1995年のロシア経済の動向は、IMFとのスタンドバイ・クレジット合意に際して、ロシア側にその履行が義務づけられたコンディショナリティに示された経済目標をめぐる各階層の利害対立とその調整いかんによって左右されるであろう。

 インフレがIMFとロシア政府の目論見どおりに終息したとしても、結果的に国内資本形成が進まず、その結果、生産も回復しなければ、経済政策の見直しは避けられず、年末に予定されている議会選挙にも少なからぬ影響を与えることになろう。

 


 

1994〜1995年のポーランド経済

 

1.1994年のポーランド経済

2.1995年のポーランド経済

 

はじめに

 1994年、ポーランドはGDP(国内総生産)の伸び率5%を記録し、1992年以降3年連続して成長を続けた。

 経済成長の牽引力となっているのは、堅調なEU向け輸出、および輸出にリードされた内需拡大、そしてこれらと関連した旺盛な投資活動である。1993年に好転の兆しをみせた農業は、作物生産が深刻な干ばつの影響を受け不作であったため、大幅な生産減となった。

1994年にはまた、国有セクターでも生産が初めて増加に転じ、構造改革面で一定の成果がみられた。

 一方、インフレは一時ほどの勢いはないものの依然高水準にあり、政府目標は達成できなかった。

 対外債務交渉でも前進がみられ、1994年はポーランドに対する国際評価が高まる年となった。

1995年のポーランド経済は、基本的には、1997年までの中期経済発展プログラムの枠内で推移することになるが、低いインフレ率と通貨の安定に支えられた輸出と投資が経済成長の決定要因となろう。だが、11月には大統領選挙を控えており、この選挙をめぐって、連合政権の内部、また大統領・政府・労働組合の確執が激化する恐れもあり、経済政策が当局の目論見どおり遂行されるかどうか、予断を許さない。

 


 

1994〜1995年のチェコ経済

 

1.1994年のチェコ経済

2.1995年のチェコ経済

 

はじめに

 チェコ経済は、1993年のスロバキアとの国家分離という政治的大変化を乗り切り、1994年には、1989年以来続いたマイナス成長を脱し、プラス成長となった。成長の要因は、輸出主導というよりも内需の拡大によるものである。

 私有化の進展も順調に進み、失業率も3%台という低い水準で推移し、旧ソ連、中東欧のいわゆる体制移行諸国のなかで、もっとも改革がうまく進みつつあるという内外の評価を受けている。問題点としては、貿易収支が赤字基調であり、その赤字を観光収入などでカバーしている点である。チェコは旧ソ連・東欧のなかでも機械工業をはじめとした加工部門が発達したところとして知られているが、輸出入商品構造をみてもそれが輸出を主導するまでには至っていない。チェコ政府内でも、輸出戦略の構築が今後の政策の焦点になるものとみられる。

 


 

1994〜1995年のスロバキア経済

 

1.1994年のスロバキア経済

2.1995年のスロバキア経済

 

はじめに

 1989年のチェコ・スロバキアの体制変革および1993年の国家分離以降、チェコ共和国については、国際関係を含め、政治体制は安定しているが、一方のスロバキア共和国については政治的不安定が続いている。1993年のチェコとスロバキアの分離を主導したメチアル政権は1994年3月に退陣し、大連立のモラフチーク政権が誕生した。同政権の政策は経済のいっそうの市場経済化を押し進め、西側の評価を得てきた。しかし、政治的安定ははかられず、秋に選挙が実施され、再びメチアル氏の主導する「民主スロバキア運動」主体の政権が誕生した。しかしながら、左派のスロバキア労働者同盟、民族主義政党のスロバキア国民党との連立という、不安定さを予感させる政権となった。新しいメチアル政権の経済政策は、大規模私有化の第2段階の実施に慎重な姿勢をとるなど、市場経済化へのアプローチは前政権とは異なるものとなっている。

 メチアル政権は、国内政治においては強権的手法、独断的傾向を強く打ち出し、それが大統領あるいは野党との摩擦の要因となっている。しかし、外交面では、これまで対立してきたハンガリーと融和政策をとる、あるいはモホフツェの原子力発電所建設について隣国の不安に応え、延期の措置をとるなど協調的姿勢をみせ、国際的摩擦は緩和しつつある。

 


 

1994〜1995年のハンガリー経済

―上昇に転じたハンガリー経済―

 

1.1994年のハンガリー経済

2.1995年のハンガリー経済

 

はじめに

 1994年末から今年2月にかけてホルン政府をゆさぶった一連の混乱(ボッド中央銀行総裁とべーケシ蔵相の辞任、フンガロホテル民営化への首相介入問題)を、ホルン首相は2月中に、専門家筋で評価の高いポクロシュ新蔵相とシュラーニ新中銀総裁(前政権当初の中銀総裁でもあった)、シューマン民営化担当相の任命によって乗り切った。民営化相人事をめぐる自由民主同盟との軋轢にもかかわらず、同党の側から連立解消の動きは出なかった。次いで3月12日に政府は、45項目からなる経済政策パッケージ(3カ年プログラム)を発表、消費抑制、投資促進、民営化加速を内容とする引締政策と輸出拡大および直接投資導入の拡大を軸とする対外均衡回復策に本格的に着手した。

 ハンガリー経済は、実物経済においては1992〜1993年を底として上昇に転じた。しかし前政権から受け継いだ巨額の財政赤字体質と1992年の農業大凶作以後続いている大幅な貿易収支・経常収支赤字は、1994年、1995年当初においてますます深刻の度を強めつつあった。上述の政策パッケージは、こうした現状に対する現政権の回答であるが、社会保障の実質的削減を内容とするこの政策が国民に受ナ入れられるかどうかは、政府の残り任期に合わせられたこの政策パッケージの目的、つまり引き締められた経済環境のもとでの成長が現実に成功するか否かにかかっている。次回選挙(1998年)は、この政策パッケージに対する国民の判定の場となるだろう。

 


 

1994〜1995年のルーマニア経済

 

1.政治・経済の最新動向

2.1994年の経済実績

3.1995年の経済見通し

 

はじめに

 1992年秋の国政選挙でイリエスク大統領が再任され、また民主救国戦線(現在は社会民主主義党)主体の内閣が発足して以降、ルーマニア情勢はおおむね安定してきた。中道的なヴァカロユ内閣のもと、1993年には経済が回復に向かい、欧州統合への参加を基調とした外交路線も固まった。当初、民営化等の構造改革が立ち遅れていたが、1993年12月のスタンドバイ・クレジットに関するIMFとの合意のなかで改革加速化を公約し、1994年以降取り組みが本格化した。

 こうしたなか、貿易の活発化に支えられて1994年にも引き続き経済が上向き、GDPが前年比3.4%増を記録、インフレ抑制でも成果があがった。ルーマニアの政治・経済の安定を背景に直接投資の受け入れも活発化しており、1994年には前年の5倍の6億5,047万ドルが受け入れられた。こうした経済の好転をさらに確固たるものとしていけるか、懸案の構造改革をいかに円滑に進められるかが当面の焦点であり、その成否は1996年に予定される地方選挙および国政選挙の結果を左右することになろう。

 なお、以下に紹介する1994年の経済実績および1995年の経済見通しのデータは主として、現地”Tribuna economica”誌に掲載されたものである。

 


 

1994〜1995年のブルガリア経済

 

1.1994年のブルガリア経済

2.1995年のブルガリア経済

 

はじめに

 1994年のブルガリア経済は、1989年に市場経済改革が緒について以来はじめてプラスに転じた。国立統計研究所からの1994年の経済実績に関する発表は数回にわたり修正され、最終的には4月に1994年の国内総生産(GDP)は対前年比1.4%増と発表された。同研究所では今後も経済は成長し、GDPは1995年には対前年比1.5〜3.5%増、1996年には2.0〜4.0%増になると予測している。さらに1994年の工業総生産は4.0%増、貿易高は増大し貿易収支もプラスに転じた。

 その一方で、労働・社会問題省は、ブルガリアは世界でもっとも貧しい国のひとつとなったと指摘しており、国民の85%はエンゲル係数が52%を超えて国民生活は苦しい状態が続いているとしている。さらに、公認失業者数は減ったものの実質的な失業者は増加しており、犯罪の急増も大きな社会問題となっている。

 政治面では、1994年3月に心不全で倒れたベロフ首相が9月に辞任、内閣は総辞職したが、社会党、民主勢力同盟はジュレフ大統領の組閣の指令を拒否し、民主勢力同盟から分かれた「新選択」も組閣に失敗した。その結果、10月にインジョワ民営化庁長官を首相とする12月18日の総選挙までの暫定内閣(選挙管理内閣)が発足した。

 12月18日の総選挙の結果は、社会党が200議席中125席を獲得し、1990年以降はじめて単独政党が議会での過半数以上を占めた。1995年1月には社会党のビデノフ議長を首粧とする内閣が発足した。

 


 

1994年のスロベニア・クロアチア・新ユーゴスラビア経済

 

1.スロベニア経済

2.クロアチア経済

3.新ユーゴスラビア経済

 

はじめに

 第二次世界大戦後の世界の政治経済動向のなかでユニークな位置を占めてきた旧ユーゴスラビア(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国)は、1991年6月25日におけるスロベニア共和国とクロアチア共和国の一方的独立宣言をもって、事実上崩壊するに至った。そしてその後の内戦を経て、1991年末から1992年前半にかけてのECをはじめとする世界の多数の諸国によるスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナの旧ユーゴ連邦構成共和国の承認により、公式的にも旧ユーゴ連邦の崩壊が確認されることとなった。このことは、1992年4月27日に開催された旧ユーゴ連邦議会連邦院での、新たな「ユーゴスラビア連邦共和国」(セルビア共和国とモンテネグロ共和国から構成;「新ユーゴ連邦」と略称)の樹立の承認および憲法の採択により追認された。だがこの間の連邦崩壊と共和国独立のプロセスは、当事者たるこれら共和国間(とくにセルビア共和国と)の事前の十分な相互承諾なしに強行されたため、現在に至るもスロベニアを除いて解決のめどさえ立たないほどの激しい内戦に突入したのである。

 ところでこのプロセスは、単なる国家分裂・新国家樹立のプロセスではない。それは本来的には社会主義的政治・経済体制から資本主義的政治・経済体制への大転換のプロセスにともなって発生したと考えられる。それゆえこのプロセスは、国家単位の変更と政治・経済体制転換という複合的なものとなる。そしてこのプロセスは、分裂した各共和国にとっては、当然にも国際政治経済の動向に大きく左右されるものとなる。したがって、1992年以降の旧ユーゴ構成共和国の経済動向は、各国毎に著しく異なることとなった。本稿では、このような独立後の各共和国の経済動向を、1993〜1994年について、簡単に検討する。ただしすべての共和国の動向を扱うことはできない。旧ユーゴ連邦経済において中心的な役割を担ってきた3つの共和国、スロベニア、クロアチア、新ユーゴ連邦に焦点をあてて考察する。

 


 

1994〜1995年のモンゴル経済

 

1.1994年のモンゴル経済

2.1995年のモンゴル経済

 

はじめに

 旧ソ連・東欧の社会主義ブロック休制からモンゴルが解放されて4年が経過した。

 ペレストロイカ、ベルリンの壁崩壊と続いた旧ソ連・東欧の民主化のうねりはアジアの内陸国にも波及し、1990年3月にはモンゴル人民革命党が一党独裁を放棄、1992年1月13日に「モンゴル国新憲法」が採択された。1921年にソ連の政治勢力圏内に組み込まれ、1924年以降、計画経済を進めてきたモンゴルの社会主義体制が事実上終焉したのである。

 体制転換後の経済改革の道程は険しいものであった。自然地理的な条件から放牧型畜産業と、その生産物を加工する軽工業や食品工業を基本として発展してきたモンゴル経済は、コメコン体制のなかでは牧畜業と非鉄金属工業の生産基地としてモノカルチャー化されていた。すなわち、羊毛・カシミアといった畜産物や銅・モリブデンなどの非鉄金属をソ連・東欧諸国に輸出するかわりに、機械・設備、消費物資などを輸入してきたのである。工場では資本や技術者の供給まで受けていたというように、コメコン諸国に全面的に依存していたモンゴル産済にとって、1991年9月のコメコンの崩壊は有機的な産業連関を失ったことを意味した。

 体制転換が始まった1989〜1993年までの4年間、国内生産は低下し続け、1人当りの個人消費は3分の1、実質投資も3分の2に低下した。また、原料や製品の輸送コストの急騰により原料確保が急激に困難になっていることも深刻な問題である。

 しかし、1994年に入ってからモンゴル経済の低迷は底を打ち、安定化の兆しをみせはじめている。国有企業の民営化など市場経済への移行プロセスは、為替相場も安定するなど、比較的順調に推移している。政府は1991年以前に生まれた全国民に額面1万ツゥグリク(1ドル=約400ツゥグリク)のクーポン券を与え、1992年に開設された証券取引所で企業の株式の購入を行い、95%以上の国民が権利を行使した。1994年からは株式を自由に売ることができるようになり、証券取引所は名実ともに本来の機能を果たすようになった。また法整備も進み、税法、私有化法、破産法、消費者保護法などが制定されている。

1994年11月8日から東京で第4回支援国会合が開催され、モンゴルに対する経済協力について協議された。会合では参加国25カ国と世銀など6つの国際機関が、総額で2億1,000万ドルを1995年分として新規に供与することを決定した。日本は45億円の円借款など総額で65億円の供与を表明し、参加国・期間中で最大の援助国になっている。