ロシア東欧貿易調査月報

1996年5月号

 

T.1995〜1996年のポーランド経済

U.1995〜1996年のチェコおよびスロバキア経済

V.1995〜1996年のハンガリー経済

W.1995〜1996年のルーマニア経済

X.1995〜1996年のブルガリア経済

Y.1995〜1996年の旧ユーゴスラビア諸国の経済

Z.1995〜1996年のモンゴル経済

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 [特別レポート]岐路に立つロシア自動車産業―始まった外国メーカーの攻勢―

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統計特集(V):CIS・東欧諸国・モンゴル輸出入通関実績(1995年1〜12月累計)

 

 


 

1995〜1996年のポーランド経済

 

1.  1995年のポーランド経済実績

2.  1995年のポーランドの対外貿易

3.  1996年のポーランド経済

 

はじめに

 ポーランド経済は、高水準にある物価上昇や高い失業率にもかかわらず、同国経済は今日までおおむね順調な成長を続けている。しかも、好調な民間セクターの成長を背景に、政府の積極的な経済拡大策もあって就業率が改善されつつあり、インフレも10%台をめどに社会生活の安定に取り組んでいる。外国投資件数も順調に伸び、1990年の2,800件から1995年9月末には2万1,400件に達した。チェコやハンガリーに続いて、ポーランドがOECDに加盟する日も近いであろう。

 1995年11月17日、わが国はポーランドに対して中長期貿易保険の引き受け再開を実施することになった。前年12月に来日したワレサ大統領に対して示された再開のための条件、@良好な経済パフォーマンスの継続、A債権国・国際金融機関等との良好な関係、B対外債務元本の着実な返済が満たされたという判断からである。

 しかし、外国人による土地取得制限や合弁企業法の不備、国営大企業の民営化の遅れなど、解決しなければならない問題も多い。体制転換以降、政権がめまぐるしく代わる政治的混乱から脱し、社会的「安定」をスローガンに、1995年11月にワレサ氏を破り大統領に就任したクワシニエフスキ氏と1996年2月に新首相となったチモシェビッチ氏の手腕が注目される。

 


 

 1995〜1996年のチェコおよびスロバキア経済

 

1.  1995〜1996年のチェコ経済

2.  1995〜1996年のスロバキア経済

 

はじめに

 チェコおよびスロバキアは1993年の国家分離後、順調な経済回復、成長軌道にのりつつある。両国間の貿易は、国家分離後清算勘定方式がとられてきたが、1995年9月に廃止され両国関係は名実ともに完全な分離を果たしたといえよう。

 チェコはOECD加盟を果たし、1996年1月にはECへの正式加盟申請を行い、先進諸国志向を強めたのに対し、スロバキア政府は、ロシアなどの旧ソ連諸国との関係に配慮する姿勢を示し、中欧諸国のなかで、やや異質な路線をとっている。

 


 

1995〜1996年のハンガリー経済

 

はじめに

 1994年5月の総選挙での社会党の劇的な勝利を受けて同年7月に成立したジュラ・ホルンを首班とする現政権は、1993年以来の経常収支と財政赤字の悪化を是正すべく、実務的スタンスに徹した経済政策を模索してきた。

 すなわち、1994年7月には「ハンガリー政府プログラム1994〜1998」を、また1995年3月には経済安定化プログラム(“ボクロシュ・プログラム”)を発表し、政策の具体化をはかった。

 このうち、経済安定化プログラムでは、1995年の主要目標を、@経常収支赤字を25億ドル以内に抑える、A財政赤字を2,000億フォリントに縮小する、B年度後半のインフレ率を大幅に引き下げることとし、その達成手段として、@フォリントの9%切り下げと毎月1.9−1.3%の段階的切り下げAエネルギーを除くすべての輸入に対する関税8%の上乗せ、B国有企業、政府機関の賃上げ抑制、企業への補助金3%凍結、A公共投資の10%凍結などを打ち出した。

 


 

1995〜1996年のルーマニア経済

 

はじめに

 ルーマニアでは、1992年秋に現政権が発足して以降、政治・経済ともに予想外の安定がもたらされてきた。政権党である社会民主主義党は、議会で過半数を占めていないにもかかわらず、民族主義政党等の協力を取り付け、ヴァカロイユ内閣を支えてきた。今年9月には大統領および上下両院の選挙が予定されているが、イリエスク大統領の続投はほぼ確実視され、議会でも社会民主主義党の伸張が予想されている。連立組み替えの可能性はあるにしても、基本的には現体制維持の公算が大きい。

  1992年まで激しい落ち込みに見舞われていたルーマニア経済は、1993年に上昇に転じ、その後は予想を上回るテンポで回復している。1995年の成長率は、東欧のなかでも高い部類の6.9%となった。ただし、ルーマニア経済には若干の不安材料もあることから、早晩訪れるとみられる調整局面を視野に入れておくべきであり、とくに選挙が終わる秋以降の政策展開を見守る必要がある。

 


 

1995〜1996年のブルガリア経済

 

はじめに

 ブルガリアでは、1994年12月18日に総選挙が行われ社会党(旧共産党)が240議席中125議席の過半数を獲得して政権に返り咲き、1995年1月、35歳のビデノフ議長が首相に就任した。社会党は13議席を獲得したブルガリア・ビジネス・ブロックの支持も受け、ブルガリアにもようやく安定した政権が誕生した。

 ビデノフ首相は在任期間4年間の「4カ年計画」を1995年5月15日に発表した。その主要目標は、経済成長の達成、民営化の促進、雇用の拡大と安定、インフレ抑制と実質所得の向上、非合法的経済活動の阻止と明確な経済ルールを確立すること、さらに、欧州連合(EU)への正式加盟を念頭に置いて、あらゆる面で西欧の水準に達し、ヨーロッパの一員としての地歩を固めることである。

  


 

1995〜1996年の旧ユーゴスラビア諸国の経済

 

1.  1995〜1996年のスロベニア経済

2.  クロアチア

3.  ユーゴスラビア(新ユーゴスラビア)

4.  マケドニア

5.  ボスニア・ヘルツェゴビナ

 

はじめに

 旧ユーゴスラビア諸国は1995年から1996年にかけて政治経済に大きな進展があった。もっとも大きなメルクマールはボスニア・ヘルツェゴビナの和平協定の合意である。この停戦の成立は、さらに新ユーゴスラビア(セルビアとモンテネグロ)への国連の制裁解除をもたらした。また、国名問題で緊張が続いていたマケドニアとギリシアも関係正常化に向けた動きが開始された。このように、連邦解体後の旧ユーゴスラビア諸国全体において、通常の経済活動を行う基盤ができつつある。

 このように、旧ユーゴスラビア諸国全体が安定化の方向がみえつつあるものの、各国の経済格差は非常に大きい。戦争による荒廃というような物理的条件もあるが、CIAの評価による1人あたりのGDP(1994年)はマケドニアの1,000ドル以下からクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、新ユーゴスラビアの1,000〜3,000ドル、スロベニアは3,001ドル以上(7,000ドル程度)になっている。このように、旧ユーゴスラビア諸国の南北格差はいっそう拡大した。

 以下、簡単に最近の状況を概観する。

 


 

1995〜1996年のモンゴル経済

 

1.  1995年のモンゴル経済

2.  1995年のモンゴルの対外経済

3.  1996年のモンゴル経済

 

はじめに

 最大の援助国ソ連が経済危機に直面し、次々に優遇措置や援助が打ち切られるなか、モンゴルが議会制民主主義と市場経済体制を選択してからほぼ6年が経過した。当初ソ連一辺倒であった貿易システムの転換には多大な痛みがともなったが、IMFを中心に西側からの援助が行われ、その額は世界主要30カ国および10の国際機関による10億ドルに達している。価格の自由化、貿易・為替の自由化、国営企業の民営化、財政の立て直し、金融制度の整備など、経済改革は確実に進み、1994年からはようやくプラス成長に転じた。高率のインフレも、緊縮財政・金融政策が効を奏して沈静化に向いつつあり、通貨トゥグリクの対ドル相場も安定してきている。1991年に始められたバウチャー方式による民営化もほぼ完了し、GDPの50%以上を民間部門が占めている。

 農産・畜産物、鉱物資源に限られた生産、人口の稀薄さ、内陸国という地理的なハンデ、割高な交通システム、そして市場経済化に欠ける法整備など、克服すべき問題は少なくない。しかし、勤勉性や高い教育水準、安価な労働力といったプラス面を生かし、自助努力を促していくことが西側諸国、とくに最大援助国であるわが国に求められていよう。