ロシア東欧貿易調査月報

1998年5月号

 

T.EUの東方への拡大と中東欧市場の発展

U.1997年のポーランド経済

V.1997〜1998年のチェコ経済

W.1997年のスロバキア経済

X.1997〜1998年のハンガリー経済

Y.1997〜1998年のルーマニア経済

Z.1997〜1998年のブルガリア経済

[.1997年のスロベニア・クロアチア・新ユーゴスラビア経済

\.1997〜1998年のモンゴル経済

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ロシア貿易・産業情報

 燃料・エネルギー

 自動車

 金融

 その他

論調と分析

 政変により180日間で経済浮上〜新内閣は迅速に課題に対処しなければならない〜

 東方からの寒い風

 2度目の離陸に成功したハンガリー経済

データバンク

  1998年の1月〜4月のロシアのマーケット

  ロシアの経済統計

  1998年1〜3月のロシアの外国投資受入状況

旧ソ連・東欧貿易月間商況1998年4月分)

旧ソ連・東欧諸国関係日誌1998年4月分)

統計特集(V):

CIS・東欧諸国・モンゴル輸出入通関実績(1998年1〜4月累計)

 

 


 

EUの東方への拡大と中東欧市場の発展

東海大学法学部教授 鈴木輝二

 

1.中東欧諸国のEU加盟問題

2.中東欧の欧州的標準への接近と同化

3.欧州協定に基づく加盟準備過程

4.欧州化による政治、経済、社会状況の具体的変化―ショック療法は有効か?

5.欧州連合の外延部の諸国の問題―EUは砦か?

6.CEFTA(中欧自由貿易連合)の地域的およびEUへの補完的役割EUの東方拡大と日本企業の対策

 


 

1997年のポーランド経済

 

1.1997年のポーランド経済

2.移行期のポーランドのミクロ経済

 

はじめに

 ポーランド経済は体制転換直後厳しい生産の落ち込みを経験したが、1992年に底を打ち、その後順調に成長を続けてきている。1996年7月にはOECDの加盟国となり、1997年7月にはEU加盟交渉の第一陣に加えられた。そして、NATO加盟に向けての準備が急ピッチで進められている。欧州統合の求心力を借りて、ポーランドを取り巻く国際環境は大きく変化してきている。

 1997年のポーランド経済は引き続き6.9%増と高い成長率を記録した。その一方で、懸念材料が急浮上した年でもあった。概して国内市場の需給関係は消費ブームと旺盛な投資意欲を背景に過熱気味に推移し、超過需要が発生していた。超過需要は価格上昇よりも輸入急増という方向にはたらいた。1997年の経済運営の課題は貿易収支赤字の増大、経常収支の赤字の拡大傾向への対応であった。

 好調な経済実績を追い風にして、このところ外国企業の進出が進んでいる。外国企業の直接投資額は1997年末には200億ドルを越え、ハンガリーを抜き中欧最大の投資受入国となった。経済成長と外資進出の好循環が見て取れる。

 確かに、移行期に会って、民営化を通して、あるいは新規企業の創設によって私企業の数は飛躍的に増加してきている。だが、ポーランドの経済において国営企業の存在は依然として大きい。基幹産業を担う大規模国営企業の民営化の遅れが目立っている。併せて鉄鋼、石炭、化学など基幹産業のリストラは今後の重要な経済政策課題である。

 


 

1997〜1998年のチェコ経済

 

1.政治状況

2.1997年の経済実績

3.通貨危機と為替政策

4.私有化と外資導入

 

はじめに

 1997年11月末、チェコ共和国首相のクラウスは市民民主党の政治資金関連のスキャンダルのために、首相を辞任した。ビロード革命以来、常に政府要職を占め、同国の体制転換の中心にいたクラウスの辞任は今後のチェコ政治経済両面で大きな影響を与える可能性がある。

 同国はこれまで、政治安定、経済政策の首尾一貫した実施、安定したマクロ経済実績などの観点から、国際金融機関の評価も移行国の中で常に上位に位置していた。

 しかし1996年の総選挙では、かろうじて政権を維持するものの、下院は与野党拮抗する状況となり、加えて、1996年後半から顕著となった経常収支の大幅赤字、GDP成長率の鈍化、インフレ再燃、通貨切り下げ圧力など諸問題が山積し、1997年5月には国際投資家によるコルナ売りによる通貨危機が発生した。

 一方、1992年から実施されたクーポン私有化を中心とした急進的私有化政策とそれにともなう資本市場の設立は、法規制の不備による株式取引のスキャンダルが続出し、1996年以降外国資本からも敬遠されるにいたった。また早すぎる雌雄かは当該企業のリストラなど実態面の問題が置き去りにされたままで、コーポレートガバナンスの点からも問題が指摘されていた。

 このようにチェコ経済は、現在多くの問題を抱えており、新首相に指名されたトショフスキー元中央銀行総裁の手腕が問われている。

 


 

1997年のスロバキア経済

 

1. 1997年のスロバキア経済

2.移行期のスロバキアのミクロ経済

 

はじめに―近年の政治情勢―

 コバーチ大統領とメチアル首相との確執 1994年3月のメチアル内閣に対する不信任案の可決を契機として、コバーチ大統領は支持母体である民主スロバキア運動に距離を置き始め、さらに、モラフチーフ暫定内閣を支持したため、コバーチ大統領とメチアル首相との対立は先鋭化するに至った。総選挙直後の10月には、民主スロバキア運動はコバーチ大統領の辞任要求を議会に提出している。

 さらに、私有化をめぐり、モラフチーク暫定内閣が実施を予定していたクーポン方式の私有化の対して、メチアル首相はクーポン私有化は欧米諸国の外国投資家に国家資産を買い占められると反対し、1995年5月に最終的にクーポン方式の私有化を中止した。これに対しコバーチ大統領は、クーポン私有化中止とすでに国民に売り出されたクーポンの代わりに1万コルナの国家資金基金債を配布する新私有化方式に関する法案への署名を拒否する態度を表明した。このように大統領と首相の軋轢が増す中、1995年8月にはコバーチ大統領の次男がブラチスラバ近郊で誘拐され、車のトランクに積み込まれてオーストリアに連行される事件が発生した。この誘拐事件にはスロバキアの情報機関が関与したとされており、コバーチ大統領はメチアル首相による陰謀であると避難し、両者の対立はさらに深まっていった。

 

EU加盟問題と大統領直接選挙をめぐる国民投票の混乱 1997年5月23日、24日の両日、NATO加盟と大統領直接選挙に関して国民投票が実施された。メチアル首相は、野党が提出した大統領直接選挙の可否を国民投票で決めることは憲法違反であるとして、憲法裁判所に訴えた。憲法裁判所は、5月21日、国民投票によって憲法を改定することは合憲であるとしたものの、国民投票に国会によって承認されていない憲法草案が含まれていたため、国民投票は憲法に違反するとの判決を下していた。

 メチアル首相は、クライチ内務大臣に命じて投票用紙から大統領直接選挙に関する条項を削除した新しい投票用紙を作成させ、国民投票を実施した。しかし、一部の投票所では、投票用紙自体が配布されなかったりして混乱を来たし、結局、投票率は9.53%にとどまった。中央国民投票委員会は、投票用紙の変更は違法であり、国民投票の無効を宣言した、キャリア外交官であるハムージク外務大臣は、国民投票における混乱に講義し、このような混乱の中で、スロバキアの外交を達成することはできないとの発言を残して、辞任した。

 NATO加盟問題については、7月8日、9日、スペインのマドリッドで首脳会議が開催され、ポーランド、ハンガリー、チェコの加盟が決定し、スロバキアはNATOの東方拡大の第一陣に入ることはできなかった。また、EU加盟問題についても、国内の民主化の遅れを理由にスロバキアは第一陣の交渉対象国に選出されず、予備交渉対象国にとどまることが決定されている。

 

光景大統領をめぐる混乱 コバーチ大統領は1998年3月2日、5年の任期を全うし大統領府をさった。大統領の任期をめぐっては、メチアル首相はコバーチ大統領の任期は国会で選出された2月15日までであるとし、コバーチ大統領は就任した3月2日であると対立していた経緯がある。

 スロバキアの大統領は現行の憲法の規定では、国会議員による間接選挙によって選出される。ただし、国会議員の5分の3以上、すなわち90票以上の賛成票が必要である。しかし、与党3党を併せて、現在83議席しか保有しておらず、それゆえ、与党は大統領選挙に候補者を出していない。また、憲法では大統領の選出については大統領の任期が切れる60日前から実施することができ、5分の3以上の得票を上げた候補者がいない場合には、30日以内に再度選挙を行うとしているにすぎず、何日以内に選出しなければならない、あるいは、第2回目の投票では過半数でよいとするなどの条項はない。したがって、与党も野党も、国会議員の5分の3の得票を獲得するのは難しいのが現状である。

 1998年1月29日に第1回目の大統領選挙が行われたが、いずれの候補者も必要な投票数を獲得できなかった。大統領選挙は6月末までに7度実施されているが、まだ、大統領を選出するに至っていない。

 メチアル首相率いる民主スロバキア運動は単独で61の議席を有しており、いかなる大統領候補者の選出を阻止できる立場にある。メチアル首相は1月半ば、大統領は9月末に予定されている総選挙後の10月30日までには選出されるであろうと述べた。すなわち、民主スロバキア運動が総選挙で90議席以上を獲得し、しかるのち、大統領が選出されるというわけである。

 大統領が不在である現在、憲法の規定により、大統領の権限は内閣にゆだねられている。メチアル首相が首相と大統領職を兼ねているのである。実際、メチアル首相はコバーチ大統領が去った翌3月3日には、大統領の権限を行使して、外国駐在の大使の半数にあたる28名の大使の解任と、4月に予定されていたNATO加盟問題と大統領直接選挙に関する国民投票の中止を発表し、さらに3月4日には、恩赦を発表した。恩赦には、コバーチ前大統領の次男誘拐事件に関わった人物に対する全ての調査の停止も含まれている。

 


 

1997〜1998年のハンガリー経済

 

1. 1997年のハンガリー経済

2.1998年のハンガリー経済の見通し

 

はじめに

 今年5月10日(第二回投票は5月24日)に実施された体制転換後3度目の総選挙は、ハンガリーに新たな政権交代をもたらした。社会党と自由民主同盟による現連立政権は崩壊し、青年民主同盟(FIDESZ)を中心とする連立政権に取って代わられた。第一回投票での得票率を見る限り、社会党の得票率は前回総選挙時とほぼ同水準であり、しかも比較第一党であることに代わりはなく、同等への支持はかなり強固である。

 今回の政界流動化をもたらした最大の要因は、自由民主同盟への支持が前回の半分以下に落ち込み、旧支持投票の多くが青年民主同盟に流れたことによる。自由民主同盟支持者の間には旧社会主義体制下の政権政党を母体として生まれた社会党との連立に、当初から強い不満があった。しかも社会党との連立政権かにおいて、与党パートナーとして十分な影響力を行使できなかった(社会党が議会において単独過半数を占めていたのだから当然だが)ことが、今回の惨敗の背景であろう。

 元来青年民主同盟は、体制転換後自由民主同盟の「兄弟政党」として生まれたリベラル主義政党であり、当初は自由民主同盟と行動を同じくすることが多かった。しかし現党首オルバンが主導権を握る過程で自由民主同盟との距離が大きくなり、保守政党への接近が続いていた。今回の新しい連立政権は、こうしたオルバン路線の成功である。しかし同等への投票者の多くはリベラルな政治意識を持つ人々であり、新政権の政治姿勢が過度に保守よりに振れれば、同党から離反することも考えられる。

 政権交代のもうひとつの背景として、社会党政権下における福祉カットへの反発が指摘されている。福祉カットは事実だが、同等支持者の基盤をなす高齢者等の社会的弱者が実際に同等から離反したのか、必ずしも明確でない。支持率が依然32〜33%を保っていることを考えれば、このみかたには疑問も残る。

いずれにせよ今回の政権交代は、ハンガリー国民が体制転換後の生活水準低下の元で、生活向上を約束するさまざまな政治潮流の組み合わせを試しているのだと見ることもできよう。

 一方ハンガリー経済は、1995年3月に開始された経済安定化プログラム(いわゆる「ボクロシュ・プログラム」)が成功し、成長と近郊改善の両立というきわめて恵まれた状況にある。

 


 

1997〜1998年のルーマニア経済

 

1.1997年のルーマニア経済

2.1998年のルーマニア経済

 

はじめに

 1996年12月に発足したチョルベア内閣は、IMFの支持のもと、1997年2月にマクロ経済安定化と構造改革に向けた急進プログラムを発表し、前政権のもとで停滞・後退していた本格的な経済改革がようやくスタートした。価格の自由化および緊縮的な財政・通貨政策の実施によって、経済の全般的な悪化は予想されていたものの、実績は予想をはるかに上回る惨憺たるものであった。

 この経済状況の悪化は、脆弱な連立政権の土台を揺るがし、翌1998年1月には社会民主同盟(SDU)が政権を離脱、同年3月30日、ついにチョルベア首相が辞任、4月15日、ラドゥ・バシレ氏(前農民党幹事長)を首班とする新内閣が発足することになった。

 このように、ルーマニア経済は、一貫した経済政策が国内の政争のために実行できない状況が続いており、“体制転換不況”から抜け出せない状況にある。

 


 

1997〜1998年のブルガリア経済

 

1.1997年のブルガリア経済

2.1998年のブルガリア経済

 

はじめに

 1997年4月に実施された総選挙は、旧共産党を継承した社会党の影響力を断ち切る上で決定的であった。すなわち、総選挙の結果、UDF(民主勢力同盟)を中心とする統一民主勢力同盟が53%を占めて議会での安定多数を確保したのである。

 同年5月に発足したUDF党首コストフを首班とする新政権は、IMF・世銀の支持を受けマクロ経済安定化へ向けた政策に踏み切り、過去との決別を企てるが、この政策によってブルガリア経済は深刻な危機に陥ることになった。しかしながら、国民はよくこの危機に耐え、コストフ政権への支持を変えなかった。

 国民の圧倒的支持を背景に、コストフ政権は次々と大胆な改革を打ち出し、これまで引き伸ばしにされてきた構造改革にも着手し、民営化では一定の成果を収めた。

 このような、ブルガリア政府の改革にのぞむ姿勢は、国際金融筋から高い評価を受け、ブルガリアの信用は大幅に回復することになった。

 旧ソ連および旧コメコンとの関係が最も緊密であったブルガリアは、その社会主義的遺産との決別に多大な時間を要すると思われるが、国民の新政権に対する支持は依然高く、政府が目に見える生活条件の改善を着実に達成していけば、将来の見通しは明るいと考えられる。

 


 

1997年のスロベニア・クロアチア・新ユーゴスラビア経済

―スロベニアを中心に―

 

1.スロベニアの経済動向

2.クロアチアの経済動向

3.新ユーゴスラビアの経済動向

 

はじめに

 旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、1991年6月に事実上崩壊するに至った。この崩壊以前には旧ユーゴは6つの共和国から構成されていたが、その中で経済的にみて最も大きな比重を占めていたのはスロベニア、クロアチア、セルビア(現在の新ユーゴの中心国)の3つの共和国であった。ちなみにこれら3カ国(以下ではセルビアの代わりに新ユーゴの数値を用いる)は、1990年時点で、旧ユーゴ全体に対し、人口でそれぞれ8.4%、25.0%、40.0%を占めていた。つまり経済活動の規模ではこれら3カ国の合計は旧ユーゴの80%以上を占めていたことになる。以下では、検討対象としてこれら3カ国を取り上げる。

 ところでこれら3カ国は1991年の分裂以来、それぞれ非常に異なる発展経路をたどることになった。この中で最も有利な立場を占めたのは紛れもなくスロベニアである。この国は元来他の共和国に対し相対的には最も独立しており、それゆえ独立にともなう混乱も最小限にとどまり、その結果国際社会からの認知もスムーズに行われた。そして現在では、チェコ、ハンガリー、ポーランドなどと並び、将来のEU加盟候補の第一陣に名を連ねている。

 これに対し、これら3カ国の中で最も厳しい環境におかれているのは新ユーゴスラビアである。すなわち新ユーゴはかなり長期にわたり国際社会からの経済制裁を受けており、現在でも事実上国際経済交流はミニマムにとどまっている。このことは、新ユーゴの経済発展にとって非常に大きな制約条件となっている。クロアチアのケースは、この2国のほぼ中間に位置していると判断される。事態は新ユーゴよりも数段好ましいとはいえ、スロベニアと同じレベルでは国際社会に十分受容されているわけではない。依然としてカントリー・リスクが相対的に高い水準を保っているのである。

 以上のような一般情勢を念頭に置き、以下では、1997年現在のスロベニア、クロアチア、新ユーゴ格好の経済動向をサーベイする。その際データの利用可能性の大小および体制移行の進展度を考慮し、スロベニアの情勢を中心としてサーベイを行う。

 


 

1997〜1998年のモンゴル経済

 

1.1997年のモンゴル経済

2.1997年のモンゴルの対外経済

3.1998年のモンゴル経済

 

はじめに

 1997年6月20日、バガバンディ前国民大会議(国会)議長がモンゴルの新大統領に就任した。旧与党・人民革命党党首が国家元首になったことで、連立与党「民主連合」政権の急進的な経済改革は見直しを迫られると予想したが、バガバンディ大統領は「改革の後戻りはもはや不可能」と経済政策に根本的な転換を加えることはなかった。しかし、大統領が人民革命党、内閣・議会が民主連合というねじれ現象は、税制の抜本改正や国営企業の民営化など経済改革の成果が上げられない「民主連合」のエンフサイハン政権に対して、モンゴル国民大会議(議会)からの退陣要求が強まった。その結果、同首相は内閣総辞職願いを提出し、1998年4月22日に議会は圧倒的多数の賛成で承認、これを受けバガバンディ大統領は翌日に開いた議会で、同じく民主連合のエルベグドルジ議長を後継首相に指名し、同月23日に同議長が正式に首相に就任した。35歳の新首相は、バヤルツオクト自然環境相(30才)、アマルジャルガル外務相(36才)、バトバヤル蔵相ならびにバトチュルーン法相(43才)といずれも若い官僚を指名し、柔軟な経済改革の舵取りを目指している。なお、1998年5月に来日したバガバンディ大統領は、モンゴル経済の今後の課題として、失業と貧困の対策を挙げ、また銅などの天然資源の開発・加工や畜産製品の輸出などを積極的に推進していくことを表明している。