ロシア東欧貿易調査月報

1999年2月号

 

T.独ロ貿易の動向と特徴

  ―日ロ貿易との比較による検証―

U.金融危機下のロシアの対外経済活動管理制度の変化

V.1998年のロシアの金融市場の概観

◇◇◇

ロシア貿易・産業情報

論調と分析

 予算‘99:時は金なり

 ロシア中央銀行の疑惑の外貨送金

 ドイツはロシアの弁護士となる

データバンク

 1.ロシアの経済統計

 3.1998年のロシアの外国投資受入状況

旧ソ連・東欧貿易月間商況1999年1月分)

旧ソ連・東欧諸国関係日誌1999年1月分)

統計特集(T):日本の対CIS貿易統計

 

CIS・東欧諸国・モンゴル輸出入通関実績(1999年1〜2月累計)

 


 

独ロ貿易の動向と特徴

―日ロ貿易との比較による検証―

 

当会ロシア東欧経済研究所 所長

小川和男

1.独ロ貿易の動向と重要性

  (1)独ロ貿易の大きさ

  (2)独ロ貿易の動向

  (3)1998年の独ロ貿易は減少

  (4)高まる独ロ貿易の重要性

2.独ロ貿易を凌ぐ独・中欧貿易

3.独ロ貿易の主要取引品目

  (1)ドイツの対ロ主要輸出商品

  (2)ドイツの対ロ主要輸入商品

  (3)高い対ロシア石油・ガス依存度

4.ドイツの対ロシア投資の動向

 

はじめに

 日本は1970年には、旧ソ連にとって西側先進諸国中最大の貿易相手国であった。同年に旧ソ連・西ドイツ間で武力不行使協定が締結されたことが大きく作用して、1970年には旧西ドイツが最大の貿易相手国に就き、日本は第2位となった。

 旧西ドイツはそれ以来、1970年代と1980年代を通じて、旧ソ連にとって最大の貿易相手国としての地歩を堅持して、ドイツ統一後は、新生ロシアにとってのこの主意をいっそう強固なるものにしている。

 日本は、1970年代を通じて第2位を保持しえたが、1980年には5〜6位となり、近年ではロシアの貿易パートナーとして9〜10位に甘んじている。

 市場化が円滑には進まないロシア経済の混迷と対外経済関係制度の未装備が要因となって、日本の対ロ・ビジネスは不振であり、将来についても悲観的見通しが一般的である。

 だが、ドイツとロシアとの貿易を見ると、堅調ぶりが目立ち、拡大している。とりわけドイツのロシアへの輸出拡大が顕著であり、1997年には90億4,300万ドルを記録している。これは、日本の対ロシア輸出の9倍である。

 ドイツ企業はロシア市場の急激な変化に即応した輸出アプローチを展開している。一方、ロシアからドイツへの長距離パイプラインを通じた石油と天然ガスの安定供給独ロ貿易発展を支える基盤となっている。

 


 

金融危機下のロシアの対外経済活動管理制度の変化

全ロシア景気研究所 所長

V.A.オレーシキン

1.対外経済活動の全般的状況

2.貿易業務の規制

  (1)輸出規制

  (2)輸入規制

3.外貨規制と外貨管理

4.外国投資の規制

5.結論

【付録1】

1999年1月7日付け連邦法「生産物分与協定法の修正と補足について」(1999年1月14日付け連邦法No.19-FZ)による1995年12月30日付け連邦法「生産物分与協定について」の修正点

【付録2】

「連邦法『生産物分与協定について』から生じるロシア連邦諸法規の修正・補足について」(1999年2月10日付け連邦法No.32-FZ)

 


 

1998年のロシアの金融市場の概観

当会モスクワ事務所副所長

D.ウォロンツォフ

1.      外貨市場

2.      価格とドル

3.      国債市場

4.      株式市場

 

はじめに

 金融市場だけでなく、マクロ・レベルのロシア経済もまた、時期的には1998年の8月17日「まで」と「その後」に区分される。危機は表面上、8月17日に始まったが、状況はずっと前から圧迫していた。8月17日に、危機は外的目標、すなわち金融市場の指標に現れ始めたのである。これにつづいて、その影響はロシア社会の経済・政治生活のすべての部面・分節に徐々に広がり、時として権力による思慮の足らない、正当化されない経済的解決を生じさせた。

 1998年8月の金融危機は世界の金融市場の市況が悪化した結果ではなく、最近数年間に蓄積された諸問題に条件付けられていたと思われる。過去の危機と異なり、8月の危機は経済指標の落ち込みの深さという点でより深刻であり、外貨、銀行、決済、その他の部面における金融の不安定性の全面化という体系だったものであった。金融危機は生産の落ち込みを引き起こした。1998年8月の生産高は前年同月比で11.5%減少し、9月には14.5%、10月には11.9%、12月には6.6%減少した【統計国家委員会のデータ】。

 金融市場の崩壊、GKO(短期国債)の取引停止、ドルに対するルーブルレートの激しい下落の始まりの直後、多くの人が考えているように、キリエンコ政府によって採用された解決は思慮にかけていた。そのとき、おおくのエコノミストの口から、「われわれは半年(1年、1年半、2年)も前から危機を予測していた」というのを聞くことができた。今日までに多くの政治家や経済学者はマスコミで、「われわれは危機を予見していた。それは予測されたものであった。もし何らかの措置をとれば、それを回避できた」と主張している。

 仕事の特性上、日本から訪ロする多くの経済代表団を随行する筆者は、定期的に学者や実務家である有名なエコノミストに会う。絶対的な真実を求めているわけではないが次のようにあえて述べたい。すなわち、アバルキン、イワンテル、ガイダル、マルティノフのような最も著名なロシアの学者を含めて、誰も実際には危機を予測できなかったし、少なくとも8月危機の前の期間に、危機到来の不可避性ないし何らかの可能性について主張していなかった。筆者が1999年早秋、大きな経済・金融上の激震が到来する可能性について聞くことのできた唯一の人物は、ロシア科学アカデミー極東支部経済研究所長のP.ミナキルだった。この発言は1998年6月初めに行われた会合で述べられた。

 この事実は何を物語っているのか。ロシアの優秀な経済識者でさえ、金融カタストロフィの規模やその後の経済の落ち込みの深さを予見することも、このカタストロフィの到来時期を正確に予測することもできなかったということである。今日すでに明らかになったのは、金融市場、主として、GKO市場における政府の思慮のない活動がすべてに対する罪をなしたということである。この問題を深く分析すると、原因が国家の現実的な経済・金融戦略の欠如にあったということができる。

 GKOのシステムは、1994年に破綻を来たした「MMM」のピラミッドに似た、金融上の「ピラミッド」のひとつのゲームと異なるものではなかった。GKOへのゲーム参加者は、大きく負けるリスクを冒しながら、「空気からお金を作り出していた」のである。その結果、より大きく負けたのはこのゲームの元締めである国家であり、この敗北の犠牲者となったのはその平凡な市民だった。GKOでゲームをしながら、国家は将来について忘れ、当面の関心についてのみ心配していた。別言すると、国家は「生きた」マネーで予算を満たすという問題を一時的に大きな犠牲を払って解決しながら、実体経済、生産部門について考えていなかったのである。

 ロシアの金融市場に費やされた過去の概観においてこうした文章を書いてきた筆者もまた、1998年8月に起きた破綻の接近を見ずに、基本指標の肯定的な動向のみを根拠もなく語っていた。おそらくそのほかの多くの観察者のように、筆者は大きな誤りを犯し、金融市場における上辺だけのプラス減少を経済全体における来るべき肯定的な出来事と関連付けてしまった。

 遅かれ早かれおきなければならなかったことが結局、起こった。ロシア科学アカデミー経済予測研究所長V.イワンテルの言葉によると、1998年8月の事件は経済観点から論理的にものであり、「研究にとっては極端に興味深い」が、人道的見地から見ると、数百万人の平凡なロシア人にとって「悲劇が起きた」のであり、各人はある程度、遅かれ早かれ危機の否定的影響を感じたと、彼は述べている。

 同時に、1998年8月のおかげで、ロシアは市場経済への移行途上で、もっと正確に言えば、市場経済の基礎を学習する過程で、最も過酷で最も有益な教訓を得た。もしロシアがおきたことから正しく脱出すれば、こうした大規模な誤りをもう繰り返さないだろう。はっきり言って、ロシア人は市場経済の基礎を学ぶのに大きな犠牲を払ったが、しかし、高くついた学習による効果は良いものでなければならない。

 おきてしまったことから身につけなければならない主な教訓は、国家や民間会社にとって、実物セクターに対して、また、実際の工業政策や農業政策、さらに、雇用、教育などの支援措置という社会政策の策定・実施に対して、また、ある程度、1993〜1998年にロシアが陥っていた金融部面の損失に対して、注意を向けるのに時間がかかったということである。

 奇妙に思えるかもしれないが、危機の否定的な結果のもうひとつは肯定的な結果を持ちうる。すまわち、GKO市場で受け取られる超過上利潤に照準を合わせた投機的資本の多くがロシアから立ち去ったことである。この投機的資本額は生産部面に対する直接投資額を上回り、それによって外国投資の本来の姿を歪め、分析に適していない外国投資統計をもたらした。ロシア経済への外国投資の公式統計によると、外国投資総額の3分の2以上はいわゆる「その他」にあたったが、実際にはGKOの取得に向けられていた。そして、外国投資総額の3分の1未満だけが「直接投資」や「証券投資」であった。国債取得に向けられた投資は、生産への直接投資額を何倍も上回っていた。

 商業銀行の資産に占めるGKOの割合の著しい高さが一連の銀行破たんの理由のひとつであった。これは他の銀行にとって良い教訓にならなければならない。

 いまでは、ロシアにやってくる投資家は実物生産にのみ資金を投下せざるを得なくなるだろう。こうした投資はおそらく、効果を迅速にもたらすというよりむしろ、長期の計画において、受入国にも投資家にも比較できないほど大きな利益となるだろう。

 最後に、危機のもうひとつの厳しい教訓がある。多くの銀行が存在しなくなり、その他の多くの銀行の状況は極端に厳しい。特に厳しくなったのは、資産に占めるGKOやそのほかの国債の比率が極端に高い銀行である。残念ながら、一連の銀行の倒産ないしその他の銀行の資産基盤の狭隘化のために、第一にいわゆる経済の「実物」部門への資金供与額が大幅に減少した。1998年12月1日現在、法人および個人に銀行によって供与された信用総額は922億ルーブルだったが、それは1998年7月1日よりも21.5%少ない(ロシア連邦統計国家委員会『1998年1〜12月ロシアの社会・経済情勢』246ページ)。1998年後半のルーブルの下落率に注意を向けると、実際の与信規模の低下はもっと劇的に見えるだろう。

 しかし、1998年の金融市場を記述しながら、忘れてはならないのは、8月におきた厳しい危機以外にも、1年間にはそのほか多くの否定的な景気変動要因が生じていたことである。そのもっとも主要な要因は2度にわたる政権交代である。金融市場の創設時点から、金融市場は政治的不安定、その結果としての経済不安定という強力な要因に直面してきたことをおもいだす。のみならず、大統領の健康という要因が加わった。1年間に何度も国家のトップの状態が悪化した。政治システムの安定性がまだ次官によって試されていない国であるロシアの活動において、この要因がどんなに重要な意義を持っているかについては繰り返して述べるまでもない。

 以下、1998年、ことに年後半のロシアの基本的金融市場における状況を記述してみる。