ロシア東欧貿易調査月報 1999年5月号 |
◇◇◇
|
1998〜1999年のポーランド経済
1.1998年の政治経済の概況
(1)政治概況
(2)経済政策
(3)経済動向
2.民営化と外資の進出
(1)民営化の法的枠組
(2)外国資本参加企業の直接投資の流入
3.1999年の展望
はじめに
近年ポーランド経済は好調に推移していた。だが、1998年夏の隣国ロシアの通貨危機はポーランドの経済にも翳りを落とした。隣国ロシアの通貨危機と無縁というわけには行かなかった。ポーランドは1994年以降年率平均6%前後の経済成長率を記録してきていたが、1998年の成長率は4.8%に減速した。
1998〜1999年のチェコ経済
1.政治状況
2.経済情勢
(1)インフレ
(2)工業生産、雇用
(3)貿易、対外収支
3.経済政策
(1)財政政策
(2)金融政策
4.私有化
5.まとめ
はじめに
1989年のビロード革命から10年目を迎えるチェコでは、8年続いたクラウス政権から1998年6月に社会党へ政権が移って1年が経過した。社会党政権は、クラウス政権末期から露呈している経済不振、構造調整問題、大規模国有企業の私有化などの課題に取り組まなければならないため、今回の政権交代は政治・経済両面で苦しい状況からの出発である。ここでは1998年6月の社会党政権誕生から1999年月までのチェコ政治経済状況を振り返る。
1998〜1999年のスロバキア経済
1.スロバキアの総選挙とジュリンダ新政権の誕生
2.スロバキア経済の動向
1998年のハンガリー経済
はじめに
ハンガリー経済は、1995年3月に導入された経済安定化プログラムが功を奏し、その後着実な成長を続けており、1997年移行実質賃金の上昇、失業率、インフレ率の低下など好ましい動きが現れている。しかし1998年後半以降は、成長テンポの鈍化、対外収支の急激な変化など否定的な傾向も強まりつつある。
1998〜1999年のルーマニア経済
1.1998年のルーマニア経済
2.1999年のルーマニア経済
概況
1998年4月、チョルベア内閣の後を継いだラドゥ・バシレ氏を首班とする新内閣の下で、大きく出遅れていた構造改革が加速している。これは、IMFが対ルーマニア融資の条件として要求しており、対外債務の返済に苦慮しているルーマニア政府も真剣に取り組まざるを得ない状況によるものである。
だが、当初はルーマニアにおける経済改革の推進役のダイアヌ蔵相が解任されるなど、改革に対し強い反発がみられた。それでも、バシレ内閣は自ら先頭に立って大規模民営化を推進、11月にはルーマニアにおける本格的な民営化の幕開けとなる国営電話会社の外国企業への売却にこぎつけることに成功した。
一方、政府の緊縮政策は、国民の反発を呼び、1999年1月には炭鉱労働者の全国的規模のデモが発生する事態を招いている。
政府の財政・金融引き締め政策により、インフレは緩和されたものの経済活動は縮小し、鉱工業生産が体制転換以降2番目に大きな減産を記録するなど、ルーマニア経済はマクロ経済安定化と構造改革の進行の影響が現れ始めている。
1999年に入ると、ルーマニア政府の改革姿勢を好感し、外国資本による国営企業、政府系銀行の買収が進んでいる。またIMFとの融資交渉が前進するなど、明るい材料も出てきている。
1998〜1999年のブルガリア経済
1.1998年のブルガリア経済
2.1999年第1四半期のブルガリア経済
はじめに
ブルガリアでは1989年11月にジフコフ共産党政権が退陣して共産党独裁体制は崩壊した。1991年には中東欧諸国での最初の民主的な新憲法が採択され、政治分野における民主化がまず行われた。新憲法制定後の選挙では共産党政権(社会党に改称)に変わって民主勢力同盟(UDF)が政権を樹立したが、改革の方針をめぐって内部対立が起こり、内閣は総辞職した。1994年の12月末の総選挙では社会党を含む民主左翼連合が過半数を占め、1995年1月には社会党党首のビデノフ賀首相となったが1996年5月以降の急激な経済の悪化により1996年12月末にビデノフ内閣は総辞職に追い込まれた。
1997年1月に総選挙を求める大規模なデモが行われた後、1997年4月にようやく行われてUDFを中心とする統一民主勢力同盟が議席の過半数を占め、5月にはUDF党首のコストフが首相に就任し、UDFは政権に返り咲いた。
コストフ政権はIMF、世界銀行など国際金融機関との合意の遵守、民営化の推進、農地の返還を課題とし、市場経済化を進めてきた。1998年には大きな内政の混乱もなく、コストフ政権下では重要な法案も議会で採択され1997年7月の通過委員会(currency board)設置後、経済も安定化を見せ、経済成長もプラスに転じた。1998年にはIMFとの間で、市場経済化の一層の推進を目的とした3年を期限とする拡大信用供与(Extended Fund Facility)取り決めを締結した。
また、1998年8月に1954年から1989年まで共産党のリーダーであったジフコフ氏が亡くなったことは、時代の変化を示す象徴的な出来事であった。
コソボ紛争については、ブルガリアはEU、NATOへの加盟を目指しており、紛争解決に向けて努力するが直接は関与しない立場をとってきた。ブルガリアは中欧・西ヨーロッパ諸国向けの輸送ルートとしてユーゴスラビア経由のルートが利用できず経済的打撃を被ったが、紛争の終結によって1999年には経済が好況に向かうことが期待される。
1998年のスロベニア・クロアチア経済
1.スロベニアの経済動向
(1)マクロ経済の動向
(2)EU加盟に向けた準備段階の現状
2.クロアチアの経済動向
(1)マクロ経済の動向
(2)クロアチアの対外経済関係
はじめに
かなり以前から恐れられていた新ユーゴスラビア、とりわけセルビア共和国に対するNATO軍による空爆が、1999年3月にいよいよ始まった。このことは新ユーゴにとってはもちろん、それと国境を接する諸国にとっても大変な悲劇である。このような展開は、実は旧ユーゴスラビアが1991年に事実上崩壊するに至ったとき、最悪のシナリオのひとつとして想定されていたものであった。だがそれが実際に生じるとなると、その程度はおそらくほとんどの人々が事前に想定していたよりもはるかに悲惨なものであろう。
ところで現時点で見ると、1991年の旧ユーゴスラビア構成諸国の間でいわゆる「勝ち組」と「負け組」とが鮮明になってきたように思われる。「勝ち組」は言うまでもなくスロベニアであり、この国は各種の経済改革を経て、来世紀初頭に予定されているEU拡大の第一陣の一角を占めるまでになっている。他方、「負け組」は複数存在し、新ユーゴスラビアはもちろんであるが、その他にもボスニア・ヘルツェゴビナやマケドニアもこの組に分類されるに違いない。ただしクロアチアについては、判定はそれほど明瞭ではない。この国はある意味では経済的な自立性を獲得し、その限りで自己責任で経済発展を目指す能力を持つことが出来るようになった。しかしながら国際的な認知の点ではスロベニアに大きく遅れをとっている。すなわち現時点ではEU加盟の目途はたっていないのである。
本章ではこれら旧ユーゴスラビア構成諸国のうち、スロベニアとクロアチアを取り上げ、その最近のマクロ経済の動態と国際経済環境とを概観する。この2つの共和国を取り上げるのは、それが「勝ち組」に属するからではなく、この両国についてはデータが入手しやすく、それ以外の国について信頼性のあるデータは入手するのは極度に困難だからである。
体制転換下のアルバニア経済
1.アルバニアの経済政策の推移
(1)民主党政権の経済政策(1992〜1996年頃)
(2)緊急経済政策とねずみ講金融機関紛争(1996〜1997年)
(3)社会党連立政権の経済政策とIMF(1997〜1998年)
2.主力産業の現状
3.結びにかえて
概況
1989年の東欧革命の影響を受けて、独特な社会体制を維持してきたアルバニアでも体制転換が開始された。1991年3月には新選挙法に基づき、アルバニア初の複数政党制自由選挙が実施された。この選挙では選挙不正を行った旧労働党を継承した社会党が圧勝し、落選したラミズ・アリア社会党書記長が,人民議会で作られた新たなポストである初代大統領に選出された。
しかし、1990年から1992年頃までの社会党政権時代は、社会主義体制からの体制転換下での矛盾が吹き出した混乱の中で、当時の政府は民主化や市場経済移行への経済政策をほとんど持ち合わせていなかったし、民主党中心の野党のボイコットによって空転した議会では、どのような政策も成立し得なかった。その結果、わずかな成果として1991年にIMF(国際通貨基金)および世界銀行(世銀)への加盟があげられるものの、むしろ問題点の湧出のほうが目立った。またこの時期、海外への難民流出も起きた。
1992年3月、社会党の選挙不正に対するやり直し総選挙が行われ、野党第一党の民主党が圧勝し、1992年4月に民主党議長のサリ・ベリシャを大統領に選出した。民主党政権下では、市場経済が加速し、1996年頃までは社会・経済状況は比較的安定していた。だが、ねずみ講事件が発端となって、内政は混乱から内紛にエスカレートした。挙国一致内閣「国民和解政府」で、内紛を終結させ、ベリシャ大統領は辞任した。1997年に総選挙が行われ、社会党を与党第一党とする中道左派連立政権が樹立され、レジェップ・メイダニが大統領に選出され、首相は、ファトス・ナノ元首相、不祥事でパンデリ・マイコ首相が就任している。
一方アルバニアの経済は、長く続く政治的不安定のなかでも成長を続けたが、その内容は「アルバニア・バブル」とでも形容するのがふさわしいもので、バブルの崩壊とともに一転してマイナス成長に入った。1997年のアルバニアのGNP(国民総生産)は25億4,000万ドル(世銀推定)、1人当たりのGNPは760ドル(同)で、社会主義時代と同じく未だ「欧州最貧国」に甘んじている(第1表)。
現社会党連立政権は、IMFとの関係を正常化し、国際的な金融支援を得ることを最大の獲得目標にしているが、コソボ紛争によるコソボのアルバニア系住民の難民流入は、結果的にIMF融資の承認を早め、国際的な金融支援を多く集める方向に働いているようである。
1998〜1999年のモンゴル経済
1.1998年のモンゴル経済
2.1998年1〜9月のモンゴルの対外経済
3.外国投資状況
4.1999年のモンゴル経済
はじめに
1998年4月22日、民族民主党と、社会民主党を機軸とする「民主連合」母体のエンフサイハン内閣は、国会議員が閣僚を兼任するとする法律が可決されたことで総辞職した。同内閣全員が非議員であるためだが、その背景にはバガバンディ大統領(1997年6月21日就任)が旧与党・人民革命党党首、エンフサイハン内閣が「民主連合」という「ねじれ現象」が税制改革、国有企業の民営化をはじめとする構造改革面での対立を招いたという事情もある。エンフサイハン内閣辞職後の4月23日には新たにエルベグルドルジ民族民主党党首(国会副議長)が首相に選出されたが、大統領が野党、内閣と議会が与党という構図は変わらず、前内閣時代から対立点となっている民営化のプロセスの問題は解決できなかった。そして、経営破綻した国営銀行の民営化をめぐって国会が紛糾(政府が国営の復興銀行と民間のGolomt Bankの合併を決定したことに対し野党が反対)した結果、7月には内閣不信任案が可決され、エルベグルドルジ内閣は発足後わずか3ヶ月で退陣することになる。
次期首相選出をめぐっては、民主連合内、与党と大統領及び議会間の調整が難航し、さらには憲法裁判所が国会議員の閣僚就任を違憲とする判決を下したことから前政権が代行内閣を務めることになり、1998年12月にナランツァルト・ウランバートル市長(民族民主党)が首相に就任するまで4ヶ月半を費やした。1999年1月にはナランツァルト内閣の全閣僚が任命され、バガバンディ大統領も首相を自ら推薦したことから、大統領と議会の関係も落ち着いてきたとされている。しかし失業と貧困、国営企業の賃金未払い問題が深刻なモンゴルでは、次期総選挙(2000年6月に予定)を睨んで与野党ともに社会福祉政策の拡充など選挙民に聞こえのよい政策が掲げることが予想され、政局の安定は選挙後まで待たなければならないと予想される。
ロシア貿易・産業情報
ガスプロムという企業について(その2)
当会ロシア東欧経済研究所調査部次長
坂口泉
8.輸出戦略(および、各国市場におけるガスプロムのプレゼンス)
9.パイプライン
10.ガスプロムの最近の財務状況
11.その他のガスプロムをめぐる目立った動き