ロシア東欧貿易調査月報

2000年5月号

 

T.1999〜2000年のポーランドの政治経済とEU加盟準備

U.2000年を迎えたチェコ経済

V.1999年のスロバキア経済

W.1999〜2000年のハンガリー経済

X.1999年のルーマニア経済

Y.1999年のブルガリア経済

Z.1999年のスロベニア・クロアチア経済

[.2000年を迎えたアルバニア経済

\.第15回ロシア経済研究日米シンポジウム報告

◇◇◇

論調と分析

 権力強化をはかるプーチン大統領

 電源を断たれた成長

データバンク

 1.ロシアの経済統計

 2.2000年1〜3月のロシアの外国投資受入状況

CIS・中東欧ビジネストレンド

旧ソ連・東欧諸国関係日誌2000年4月分)

 

CIS・中・東欧諸国・モンゴル輸出入通関実績(2000年1〜3月累計)

 


 

1999〜2000年のポーランドの政治経済とEU加盟準備

 

1.移行期の政治概況

 (1)左派連立政権から中道右派連立政権へ

 (2)右派中道連立政権

 (3)連立政権の解消

2.経済の現状

 (1)マクロ経済の動向

 (2)産業の動向

3.EU加盟準備

 (1)欧州協定

 (2)加盟申請の受理

 (3)加盟前戦略

 

はじめに

 政治体制の転換を受けて、ポーランドで経済改革が開始されてから10年の時が経過した。ポーランドは旧ソ連東欧の社会主義圏ではじめて一党支配体制に終止符を打ち、1989年夏「連帯」連立政権を誕生させた。

 紆余曲折経ながらも、ポーランドの経済改革は着実に成果をあげてきている。この10年の間にポーランドの経済社会の様相は一変した。マクロ指標で見る限り、体制移行諸国の中でも際立った実績をあげてきている。

 この10年ポーランドを取り巻く国際環境も一変した。1991年EC(当時)と連合協定を締結したのを皮切りに、1992年のCEFTA創設への参加、1996年OECD加盟、そして1999年にはNATO加盟国となった。現在、来世紀初頭のEU加盟に向けて交渉がすすめられている。

 


 

2000年を迎えたチェコ経済

1.体制転換の問題点

 (1)マルクス主義の呪縛

 (2)プラハ証券市場の特殊性

 (3)企業スキャンダル

2.金利から見た金融政策

 (1)1993〜1999年までの動き

 (2)投資資本の光と陰

 (3)長期資本導入の課題

3.個別マクロ経済分析

4.経済政策

 (1)EU加盟に向けて

5.まとめ

 

はじめに

日本語で書かれた、チェコ経済を論じている文章を読んでいると、基本的なことを間違って伝えるといった致命的な問題に出会う。

 本稿では、マクロ経済分析を行う前に、まずこの間違いを正したいと思う。このことが理解できていないと、チェコ経済の全体像が浮かび上がってこず、マクロ  経済分析に支障をもたらすことにもなりかねないからである。

 その後、金利という視点で、1993〜1999年までのチェコ経済動向を時系列を追って検証した後、個別分析を簡単にまとめ、そして、最後に経済戦略と今後の予測を述べてみたいと思う。

 


 

1999年のスロバキア経済

1.1999年のスロバキア経済

2.2000年のスロバキア経済

 

概況

 スロバキアでは、カリスマ的な大衆政治家であるメチアル首相の下で強引な権威主義的な政治が進められ、メチアル氏自身も再三失脚したり、大統領ポストが半年も空席になるなど、政情不安が続いた。

 1998年6月の総選挙によって、ジュリンダ氏を首相とするスロバキア民主連合の連立政府が発足、大統領もそれまでの議会による選出という方法から国民による直接選挙による選出に改められた。1999年5月29日の選挙で大統領には、民主連合の一員である市民和解党のシュステル氏がメチアル氏を破って当選した。

 ジュリンダ政府は、幅広い政党との連立により、政権の基盤固めを試みているが、政府の緊縮経済政策をめぐって連立与党の中で軋轢が高まっている。また、最大野党のメチアル前首相に率いられたスロバキア民主運動が早期の総選挙を要求するなど、与野党の対立が深刻化している。

 国内での不人気とは対照的に、ジュリンダ政府はスロバキアの国際的評価を高めている。スロバキアが目標としているEU加盟についても交渉対象国に選定されるなど、メチアル政権の下で足踏みしていた「ヨーロッパへの復帰」も進み始めた。

 政府が1999年に設定した中長期目標は、@財政赤字をGDPの2%の水準にすること、A経常収支の赤字をGDPの5〜6%に抑えること、BGDPは、1995〜1998年の年間平均成長率が6.1%であったのを約3%におさえること、Cインフレを年率約10%にとどめること、D失業率を約10%におさえること、などである。成長率を抑えるのは、主としてインフラなどの過剰投資によって加熱した経済を安定させるためである。失業率は、2000年の前半が約19%、後半が18%弱と予想されている。

 1999年はインフラストラクチャー関連投資を中心とする政府支出が大幅にカットされたが、外需が良好であったのとがプラス要因となり、成長が維持された。財政赤字の目標は達成された。実質所得は引き続き低下しており、失業率も20%近辺にあり、大きな国内問題に発展しつつある。

 


 

1999〜2000年のハンガリー経済

 

1.近年のハンガリーの経済概況

 (1)工業総生産の動向

 (2)建設、小売り

 (3)対外貿易の動向

 (4)インフレ、失業

 (5)外資の進出状況

2.ハンガリーのEU加盟問題

3.2000年第1四半期のハンガリー経済の動向

 

はじめに

 ハンガリーをはじめとする中東欧諸国の体制転換から早や10年が経過する。当初、ハンガリーの体制移行はスムーズに進むと見られていた。ハンガリーでは1968年から新経済メカニズムと呼ばれた経済改革が実施されるなど20年に及ぶ改革の歴史があり、加えて、1980年代後半に市場経済体制構築のために諸制度が準備されてきたためである。しかしながら、体制転換後のハンガリー経済は財政赤字、経常収支赤字ならびに対外債務の増大のトリレンマに苦しめられてきた。生産低下がそこをうち、経済が浮上するのはようやく1993年に入ってからであり、中期的な成長軌道に乗るのは、1995年から始まった緊縮政策の効果が現れた1996年以降である。以後、ハンガリー経済は4〜5%の安定した経済成長を持続してきている。

 


 

1999年のルーマニア経済

1.1999年のルーマニア経済

 (1)IMF融資交渉

 (2)経済実績

2.2000年のルーマニア経済

 (1)中間経済戦略

 (2)IMF融資交渉

 (3)予算成立

 (4)2000年1〜3月の経済

 

はじめに

 ルーマニアでは、1998年4月に成立したバシレ内閣の下で、大きく出遅れていた構造改革が加速した。これは、IMFが対ルーマニア融資の条件として要求しており、対外債務の返済に苦慮しているルーマニア政府も真剣に取り組まざるを得ない状況によるものである。だが、当初は改革の推進役の蔵相が解任されるなど、改革に対して強い反発がみられた。それでも、バシレ内閣は自ら先頭に立って大規模民営化を推進、同年11月にはルーマニアにおける本格的な民営化の幕開けとなる国営電話会社の外国企業への売却にこぎつけることに成功した。

 1999年に入ると、ルーマニア政府の改革姿勢を好感し、外国資本による国営企業、政府系の銀行の買収が進み、またIMFとの融資交渉も前進するなど、明るい材料も出てきた。だが、同年12月には大統領及び最大与党の農民党幹部との確執が原因でバシレ内閣が解任され、代わってイサレスク中央銀行総裁が新首相に就任した。

 このように、代わってルーマニア経済は、一貫した経済政策が国内の政争のために実行できない状況が続いており、「体制転換不況」から依然抜け出せない状況にある。

 懸案であったIMFとのスタンドバイ・クレジット取り決めが1999年8月に結ばれたが、融資条件がクリアーできず、途中で打ち切られ、再開のための交渉が続けられている。

 明るい話題としては、1999年12月ヘルシンキにおけるEU首脳会議で、他の4カ国とともにEU加盟候補国として正式に加盟交渉が開始されることが決定されたことがある。

 2000年2月14日、コソボ紛争後の損失が9億ドルにあがると、イサレスク首相が第3回南東欧協力協定参加国会合で発表した。

 


 

1999年のブルガリア経済

1.1999年のブルガリア経済

 (1)IMF融資

 (2)民営化

 (3)経済実績

2.2000年のブルガリア経済

 (1)IMF融資

 (2)ブルガリア2001プログラム

 (3)2000年の経済予測

 

はじめに

 ブルガリアの経済状況はIMFの主導によるマクロ経済安定化の一環として1997年7月のカレンシー・ボードを設置した後に、急激な変化を見せた。カレンシー・ボードは、ブルガリアの通貨レフをドイツ・マルクに固定し、為替レートを安定させることを目的とするものである。最もこうかが現れたのは、インフレの低下であった。1997年には年率1,082.3%にもおよぶハイパーインフレを記録したが、1998年には同22.3%まで収支した。

 GDPについても、1998年には前年比4.5%増となり、1996年のマイナス10.9%、1997年マイナス6.9%からプラスに転じた。GDPに占める民間部門のシェアも1996年には35〜40%、1997年には約58%、1998年には約62%となり、今後も民営化が進むにつれ拡大するものとおもわれる。

 外国貿易では旧コメコン諸国のシェアは大幅に縮小し、代わってEU諸国が大きなシェアを占め、1999年には輸出では52.6%、輸入では48.7%を占めた。

 国民一人当たりのGNPは1,220ドルである。1999年の小売販売高は前年比5.5%減となった。

 1999年5月31日、貿易相はコソボ紛争によるブルガリアの経済損失額を1,327億レフと発表した。もっとも大きな影響を被ったのは輸送部門で、5月だけで損失額は580レフにのぼっている。これとは別に、米国国際開発庁(USAIDO)は、コソボ紛争によるブルガリアの短期的経済損失額を1億ドル、長期的経済損失額を3億〜4億ドルとする見方を示した。

 12月21日、ブルガリア議会はコストフ首相の提案した内閣組織の一部変更および新閣僚人事案を承認した。同首相は、EU加盟に向けた国内体制の強化を今回の閣僚入れ替えの最大の理由に挙げているものの、その規模の大きさから、最近の政治家、官庁の汚職問題に端を発した、トップ人事刷新を求める世論の強い圧力も考慮したのであるとの見方が有力である。

 今までのところ、IMFはブルガリアの経済改革を高く評価しているが、その一方で失業などの社会的軋轢が強まってきており、2001年に議会選挙を控え、コストフ政権は難しい舵取りを迫られるものと見られる。

 


 

1999年のスロベニア・クロアチア経済

1.スロベニアの経済動向

 (1)マクロ経済の動向

 (2)外国対内直接投資の動向

 (3)他の中欧諸国との対比

2.クロアチアの経済動向

 (1)マクロ経済の動向

 (2)対外経済政策

 (3)EU加盟にとってのクロアチアの経済的可能性

 

はじめに

 1999年におけるスロベニアのマクロ経済の動向は概ね好ましいものであった。そして政府の政策の焦点は、ここ数年間一貫してそうであったように、EUへの加盟準備におかれた。最新の情報では、スロベニア政府は2002年末までにEUの「アクウィ」(=欧州連合の法秩序)採用のためのプログラムを改訂し、EUへの加盟準備をさらに推進し(2000年4月13日)。このプログラムは2つの中核的な活動である加盟プロセスと加盟交渉とを調整する文書である。以上の例からもわかるように、スロベニア側からのEU加盟準備は着実に前進しているといってよい。

 他方1999年のクロアチア経済はあまり好調とはいえなかった。1998年と比べて、生産額はドル表示では減少したからである。このような経済状況は、クロアチア経済の安定性重視のためにもたらされた側面が強い。このような必ずしも好ましくない経済情勢のなかにあって、2000年に入り一つの良いニュースが伝えられた。それはツジマン大統領死去に伴う大統領選挙でメシッチが新大統領に選出され、その結果国際社会、とりわけEUのクロアチアに対する対応がより好意的なものとなったのである。このようなクロアチアにとっての国際経済環境の改善は、この国の今後の経済にとってかなり大きな影響を及ぼすであろう。

 以下でははじめに1999年におけるスロベニアの経済動向を、ついでクロアチアのそれを検討する。

 


 

2000年を迎えたアルバニア経済

1.IMF融資と経済政策

2.国内主要産業動向

3.主要国際関係動向 ―地域協力を中心に― 

 

概況

 アルバニアは、独自のスターリン主義を最後まで誇示した社会主義国であったため、その経済は欧州最貧であった。その後、東欧革命の余波による1990年末の体制転換で、政治民主化とともに資本主義市場経済への移行を進めることになった。しかしその道は、他の旧東欧諸国よりも平坦ではなく、とくに1997年の国家規模のねずみ講事件による内紛や1999年のコソボ紛争の影響等、激動の連続であった。政府は、2000年を「観光年」と打ち出してはいるが、実際には、依然激動の影響をひきずったままの混乱の中での困難な体制転換を余儀なくされている。

 1999年はコソボ紛争によるアルバニア経済への悪影響が懸念されたが、同年のGDP成長率は8%であった。実際に、コソボからの難民受入れで、難民人口は15%増加している。中央銀行のチャニ総裁も、経済成長が継続されないのではないかという警告をだしている。事実、インフレーションは収まりつつあるものの、失業率は16.8%(労働人口は24万人)で依然高い水準にある。これに対して、中央銀行のチャニ総裁は何らかの失業対策を政府に求めた結果、政府は公共事業の進捗を図った。総じて見ると、アルバニア経済は、堅調であり、懸念された状況ばかりではなかったようである。

 1999年のアルバニアの主な政治的な出来事としては、1999年10月27日に新しくイリール・メタ首相が就任したことがある。かれは、前任のパンデリ・マイコ首相の下では副首相であったが、マイコ首相がアルバニア社会党のキング・メーカーであるファトス・ナノ社会党議長と路線対立の結果、同年10月初旬の党党首選挙でナノに敗北したあとに首相になったのである。

 メタ首相の下で、2000年に実施される地方選挙、人民議会選挙に向けての準備が開始されたが、選挙日程に関して、連立与党の社会党と野党第一党の民主党の間で、意見の対立が激化した。中央選挙管理委員会は、選挙日程については、公正な選挙体制が整ってからという見解であり、与党社会党と駐アルバニアOSCE大使も同様の見解を出している。(OSCEは、選挙の監視をする関係上、時期についての問題に関与している。)しかし、サリ・ベリシャ前大統領を党首とする民主党は、早々の選挙の実施をもとめて、場合によっては、選挙ボイコットも行うとの強硬姿勢である。この問題は、1997年のねずみ講紛争で、議員や大統領の任期満了前に政権を交代せざるを得なかった過去の経緯が大きく関係している。また、民主党の幹部が暗殺された1998年の事件も、民主党側は、暗殺は社会党の手によるものであるとし、国民の同情票が得やすいように早い時期の選挙を望むVEFA(社長は拘留中)ですら、1999年12月段階で、その資産の約12%しか手元に残っておらず、未だに生産の目途は立っていない厳しい状況である。また、2000年4月にギリシャ警察に逮捕されたねずみ講金融機関の社長から、マネー・ロンダリングにアルバニアのねずみ講が利用されたことが明らかになった。さらに、ねずみ講金融業者のVEFA社とギリシャの警察幹部との癒着等も2000年5月に判明するなど、周辺諸国を巻きこんだ複雑化した背景も露呈している。

  経済的動向として注目されるのは、IMFからの拡大構造調整融資(ESAF)という3年間の資金援助計画の突然の中止といった問題が発生したことである。すまわち、アルバニア経済の発展にあわせて、IMFの調査団がアルバニアでの調査を基に、パンデリ・マイコ前首相政権時に、アルバニアに対し3年間の好条件で資金援助が実施され、ESAF2の段階で中止された。理由は、アルバニアの経済状況は当初より良好に進んだため、ESAFの3年間の支援計画が終わる以前にPRGF(貧困からの脱出及び発展への便宜)という支援額の低い支援計画の対象国に変更されたことによる。

 構造改革としては、民営化が第一の課題とされている。しかし実際は、民営化は遅々として進まぬ状態である。もっとも、大規模な企業の民営化やインフラストラクチャーに関する公共事業がいくつか指導している。

 1999年のコソボ紛争の経済への影響は、インフォーマル(闇)経済の拡大、(主としてヘロインの密売)等とともに未だに大きい。そして皮肉にも、全体としては、コソボ紛争の支援が各地から寄せられたため、かえってアルバニア経済自体が、全体としては潤う方向で影響を及ぼしている。その他、外国投資も増加傾向にある。

 


 

15回ロシア経済研究日米シンポジウム報告

基調報告

「ロシアの政治および安全保障の主要問題」(スチュアート・ゴールドマン 米国議会図書館調査局専門官 )

個別報告

1.「エリツィン後のロシア経済のジレンマ」(ジョン・ハート 米国議会図書館調査局旧ソ連調査部主任専門官 )

コメント 西村可明 一橋大学経済研究所教授

2.「新しい指導者を迎えた新しい国家:正常化への展望」(ジェームス・ミラー ジョージワシントン大学ヨーロッパ・ロシア・ユーラシア研究所所長 )

コメント 渡邊幸治 元駐ロシア大使 (財)日本国際交流センター シニア・フェロー

3.「中日協力(経済、政治、軍事):見通しと含意」(スチュアート・ゴールドマン )

コメント 小川和男 (社)ロシア東欧貿易会理事、ロシア東欧経済研究所所長

 

 当会では5月19日、虎ノ門パストラルにおいて第15回ロシア経済研究日米シンポジウムを開催した。ここでは、当日の米国側の報告とそれに対する日本側のコメントを一部省略して、紹介する。なお、詳細については近日中に発行されるシンポ報告書を参照願いたい。